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千眼寺 保呂羽堂[せんげんじ-ほろわどう]

清流荒川エリア
歴史・文化
春
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秋
冬

向拝には鳳凰・龍・獅子が施されています

蟇股[かえるまた]にも中国の故事が彫られています

山門から続く石段は約130段

山門

保呂羽堂は、国指定文化財「平林城跡」の所領であった色部氏15代・色部長真[いろべ-ながざね]が天正19(1591)年に出羽国仙北郡大森町の保呂羽山波宇志別神社から当地に分霊したことにより創立され、その後の安政5(1858)年に再建されたものと伝わる。
保呂羽堂の奥行きが深く、幣殿と拝殿を前後に明確に分ける平面形式は、越後特有の形式と知られている。

総欅造
[本殿]一間社流造、桟瓦葺、向拝一間
[拝殿]入母屋造 千鳥破風付、桟瓦葺、向拝一間 軒唐破風付
[幣殿]切妻造、桟瓦葺

指定:平成19(2007)年11月20日

【村上市教育委員会】
住所 村上市平林1701
アクセス(車) 日本海東北自動車道「荒川胎内IC」から車で約14分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「平林駅」から徒歩で約15分
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関連スポット

村上市指定文化財 旧成田家住宅

村上で現存している武家住宅の中では、唯一玄関が妻側に位置する形態で、建築年代は幕末から明治にかけてと推定され、平成8(1996)年に復原後、一般公開されています。 【旧成田家住宅と『諸国廻遊日録』】 旧成田家住宅は、現在の村上市新町にある。ここは、江戸時代の内藤氏治政世下においては旧武家町に属し、村上城本丸に通じる下渡門[げどもん]の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところである。 『諸国廻遊日録』とは、九州佐賀藩士・牟田高惇という侍が、武者修行で諸国を巡り歩いたときの日記のようなもので、その日記によると、嘉永7(1854)年7月頃に村上にも立ち寄り、七夕祭りなどのことが記載されている。このとき、牟田高惇が宿としたところが、当時は空き家であった「元岡本左太夫」の屋敷であったことが日記にあり、明治初年の城下絵図にも、旧成田家住宅の位置には岡本左太夫という名前があり、これが現在の位置に比定される。 しかし、明治の村上藩士の分限帳(名簿)には、この岡本左太夫という名前は見当たらないことと、牟田高惇が訪れた頃、すでに空き家であったことから、どのような武士が住んでいた住宅であったかは現在のところ不明である。 (村上市郷土資料館) 【旧成田家住宅と復原調査】 この住宅の構造形式は、直屋[すごや]・寄棟造・茅葺であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえるが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入りの玄関であるのに対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴であるといえる。 また、建物の改造痕跡や技法などの調査からも、これまでに若林家や嵩岡家、岩間家などとは異なる面がかなりあり、特に技法的には一段と進んだ方法が見られる。さらに、先の『諸国廻遊日録』には、元岡本左太夫の住宅間取りも記載されているが、この記述と復原調査からの間取りとも合致しない点がかなりある。 このようなことから、『諸国廻遊日録』にある屋敷を前身建物として、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、従来の武家住宅の建築方法や技法を踏襲しながら、新たに建て替えられた再生武家住宅であるという考え方もできる。いずれにしろ、この住宅が江戸時代から明治時代へと移り変わるときに建築されたことを考えるならば、村上の住宅の歴史や変遷を理解する上で貴重な歴史的建造物であることには間違いはない。 (村上市郷土資料館)

如意山 十輪寺

創立は不詳。参道には九品仏の一つ、中品下生仏と閻魔堂があり、十輪寺のご本尊・地蔵菩薩は「火消し地蔵」と呼ばれて地域の守り神として親しまれています。 毎月23日には、厄払い・開運の「護摩祈祷」を行っています。また、3~10月の第4日曜日には、町屋通りにて「十輪寺えんま堂の骨董市」が催され、多くの人出でにぎわいます。

万年山 長楽寺

創立は天文9(1540)年、開基は本庄越前守繁長(ほんじょう えちぜんのかみ しげなが)、開山は 耕雲寺11世 三心宗尹(さんしんそうい)禅師。 はじめは里本庄にあり、本庄氏に従うかたちで村上に移った。本庄氏が村上を去るのは天正18(1590)年末、福島城主になるのが慶長5(1600)年。その時、同寺は福島へも建立された。福島長楽寺の開山は、宗尹の師の大沖元甫(だいちゅうげんぽ)である。 江戸時代中期には、城主・榊原氏や本多氏などの家中寺として遇されたか、両家の重臣らが菩提寺にしている。参道入口には九品仏の上品下生仏、境内には三十三番観音を祭る。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

體真山 満福寺[たいしんざん-まんぷくじ]

創立は慶長元(1596)年、開山は耕雲寺14世 剛安寿金禅師[ごうあんじゅきんぜんじ]。宝永2(1705)年での山号は村上山とある。後に慈海山[じかいさん]と改め、さらに體真山[たいしんざん]と改めた。 山号を改めた理由は不明であるが、村上山の山号は地名によることは明らか。文書上の村上の初出は永正6(1509)年9月11日である。 文化2(1805)年に建て替えられた時の費用は、90両3分2朱と銭1035貫730文。全て銭にすると、1651貫862文であった。当時の大工日当は150文、米1俵が1貫650文の時代である。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

越後村上 町屋通り

村上市中央商店街の小町[こまち]~大町[おおまち]~上町[かんまち]の通りには、昔ながらの町屋造りを活かした建物が数多く立ち並んでいます。「越後村上 町屋通り」をぶらり歩いて、城下町・村上の風情をご堪能ください。

西奈彌羽黒神社[せなみ-はぐろじんじゃ]

一般的には略して羽黒神社と呼んでいます。祭神は奈津比売命[なつひめのみこと]・倉稲魂命[うがのみたまのみこと]・月読命[つきよみのみこと]です。 寛永10(1633)年、ときの村上藩主・堀丹後守直竒が神社を上(城)から見下ろすのは畏れ多いとして現在の地に遷宮しました。この遷宮祭が行われたのが6月7日で、新暦になってからは7月7日に大祭が行われています。 元禄3(1690)年に村上藩主・榊原勝乗が建立した社殿(神明宮)は、昭和44(1969)年に新潟県指定有形文化財に指定されています。

飯野門通り

城下絵図には飯野門が描かれているが、長井町・上町(かんまち)境から飯野門に至る路を飯野門通りといった。 江戸時代を通じて、羽黒神社祭礼の屋台や神輿は、朝から飯野門前に集合し、この門から城内を巡って、片町の庚申堂桝形(ますがた)から町人町(ちょうにんまち)に出て巡行を続けた。 沿道の藤基(ふじもと)神社入り口の石積の階段は、市道 飯野門線の道路拡幅の際、いったん撤去されたが、伝説の石工集団「穴太(あのう)衆」によって積み直され、復旧したものである。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

筏場通り[いかだばどおり]

庄内町から泉町に至る路で「筏場[いかだば]通り」といわれていた。筏場とは、三面川上流から筏を組んで流してきた木材の陸揚げ場で、ここから材木屋や木羽[こば]屋に運ばれた。 文政3(1820)年の『塩町軒付帳』には、木挽[こびき]9軒、木宿8軒。文久3(1861)年の『加賀町軒付帳』には、木挽11軒とある。 木挽とは、木材を製材する職人をいい、また木宿とは薪や炭を扱う薪炭[しんたん]屋をいう。 以後、近年まで塩町と加賀町には材木屋や製材所が集中していた。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

九品仏 下品上生 安泰寺境内

宝暦8(1758)年頃から宝暦10年頃にかけて、城下の安寧と藩主・内藤信成侯150回忌のため、城下の要所に建てられた石仏です。「九品」とは、極楽浄土の九つの階級のことで、九品仏は浄土におられる阿弥陀様の姿。上品上生から下品下生を示すのは「手の印の結び方」によります。2時間位で全部を見て回れます。

出羽街道(小俣~大沢)

村上市山北地区の山間を18kmにわたり横断している、かつては松尾芭蕉が「奥の細道」の旅で越後入りした街道。芭蕉は元禄2(1689)年8月12日に中村(現:北中集落)に宿をとったといわれています。緑豊かな自然の中に、昔あった番所や宿場の集落が現在に息づいています。北中芭蕉公園、大沢峠の石畳、小俣集落のまち並みなどが見どころです。

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