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イベント情報

2025(令和7)年度 三面川の居繰網漁[みおもてがわ-の-いぐりあみりょう]

芸術・文化

2025年10月21日(火)~11月30日(日)

過去の実施の様子

過去の実施の様子

村上に今なお残る、鮭の伝統漁法を見てみませんか?

居繰網漁[いぐりあみりょう]は、今では村上市の三面川[みおもてがわ]だけに残る、江戸時代から伝わる伝統漁法です。三面川の川幅いっぱいに設けられた柵(ウライ)の下流で行われ、漁師たちが「小回し舟」と呼ばれる川舟を巧みに操り、網で鮭を捕えます。村上の秋~初冬にかけての風物詩です。

≫実施時間
【月~金曜日】9:00頃~
【土・日曜日、祝日】9:00頃~/13:00頃~

≫料金
見学無料

≫備考
・三面川左岸で実施します
・柵(ウライ)の延長線上から300~400メートル下流で行います
・漁の状況によって早く終了する場合があります
・悪天候や西風が吹くとき等は出漁しない場合があります
住所 村上市三面川・左岸
電話番号 0254-75-8943(村上市観光課) 0254-75-8943(村上市観光課)
開催期間 2025年10月21日(火)~11月30日(日)
開催時間 【月~金曜日】9:00~ 【土・日曜日、祝日】9:00~/13:00 ~
アクセス(車) 【三面川左岸まで】日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約10分
アクセス(電車・バス) 【三面川左岸まで】JR羽越本線「村上駅」から徒歩で約20分
駐車場(台数)
大きなマップで目的地までのルートチェック

関連スポット

庚申堂

創建は天文9(1540)年。行海上人が摂津国(大阪)から勧請し、安良町に祭ったといわれています。寛文7(1667)年に現地へ移りますが、それは現地が村上城下の中心「札の辻」(大町・上町・安良町の接点)からみて表鬼門に当たるため、城下の鬼門封じのためだったといわれています。

藤基神社[ふじもと-じんじゃ]

藤基神社社殿は総欅造りで、日光東照宮と同じ権現造り。嘉永2(1849)年に当時の工匠がその技を結集し、8年の歳月を費やして造り上げたものです。村上が生んだ工匠・有磯周斎[ありいそ-しゅうさい]による、かご彫りと呼ばれる彫刻の傑作を各所に残しています。 ご祭神は、徳川家康侯の異母弟に当たり、徳川家十七士の一人でもある村上藩の藩祖・内藤信成[のぶなり]侯、十代目の信敦[のぶあつ]侯、十一代目の信思[のぶもと]侯を祭っています。 八幡大神[やわたのおおかみ]、誉田大神[ほんだのおおかみ]、火帯姫大神[ほたらしひめのおおかみ]、稲荷大神[いなりのおおかみ]、倉稲魂神[うかのみたまのかみ]、秋葉大神[あきばのおおかみ]、火産霊神[ほむすひのかみ]、学問の神である菅原道真公を祭っています。

飯野山 龍皐院[いいのさん-りゅうこういん]

創立は文安3(1446)年(室町時代中期・室町幕府八代将軍 足利義政の時代)。後に、耕雲寺5世に晋住される徳嶽宗欽[とくがくそうきん]大和尚が草庵を結び、九皐庵と称して山居されたことがはじまりである。 開山没後、新発田の宝積寺[ほうしゃくじ]より、法孫の瑚珊文愛[こさんぶんあい]和尚が来て、山号を飯野山と定め、寺号を龍皐院と改めて中興し、今日に至っている。 現在の本堂・庫裏は平成2(1990)年に、山門は平成9(1997)年に改築されたものである。 山門前には、享保2(1717)年造立の地蔵菩薩立像がある。その近くには、三ツノ山(江戸時代の力士)の墓碑がある。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

三の丸記念館

三の丸記念館は、明治40(1907)年に村上銀行本店として建築されたものです。村上銀行は、明治11(1878)年に国立銀行として誕生した「村上第71国立銀行」の業務を引き継いだことから、鬼瓦には図案化された「七十一」の文字が刻まれています。昭和57(1982)年まで現在の第四銀行村上支店の位置で店舗として活用されていましたが、銀行の改築に伴い、明治末期の貴重な建築物の保存のため、現在の位置に曳家により移転・保存されています。現在は、集会場や作品展の展示会場として活用されています。

村上市指定文化財 旧岩間家住宅

【2025.12.18更新|2025-26 年末年始の開館状況】 旧岩間・嵩岡・藤井家住宅は12/27(土)~1/4(日)休館いたします ※1/5(月)から通常開館します ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 東西方向に棟を持つ直屋・寄棟造りの茅葺き住宅で、平成7(1995)年に現在地に移築復原されました。建設当初は連棟式の長屋形式の住宅であったものを、安政5(1858)年に一戸建の武家住宅に大改造しました。茅葺き屋根の梁間が二間と小さく、背面の増築した下屋根が大きいことでも伺い知ることができます。 【旧岩間家住宅の旧所在地】 旧岩間家住宅は、現在の新潟県村上市飯野2丁目にあったものを現在地に移築復原したものです。旧所在地は、江戸時代に五軒町と呼ばれていたところで、町人町(細工町)と接していました。明治初年の城下絵図によると、この岩間家の位置に「須貝勝太郎」と記されていることから、もとはこの村上藩士・須貝勝太郎の屋敷であったと推測されます。 なお、岩間氏の先祖は山形県の旧新庄藩の武士であったと伝えられており、この屋敷については昭和23年に取得し現在に至っていますが、住宅部分については村上市へ寄付されました。 また、この岩間家住宅は平成4年9月21日に村上市の有形文化財として指定されましたが、茅葺屋根等の破損と老朽化が激しく、一時的な補修では建物の維持が図れないということから、同年12月に、移築復原を前提とした解体と部材の保存格納が行われました。 (村上市郷土資料館) 【復原調査と安政5(1858)年の大改造】 この住宅の構造形式は「直屋[すごや]・寄棟造・茅葺・一戸建」であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえますが、この住宅の特徴は、この建物が建設された当初の形態と安政5年に行われた大改造後の形態がまったく異なるものになったことです。 武家住宅というのは基本的には藩の官舎であり、身分や格式によって厳しい建築規制がありました。つまり、その武士の身分や格式によって住まいする住宅の規模や形式が決まっていたため、長屋形式の住宅に住まうのは下級武士であり、それに対して一戸建形式の住宅に住まうのは中級以上の武士でした。このことからも、こうした建物の形式そのものを変えるような改造は、よほどのことがない限り行われなかったのではないかと考えられます。 この改造が行われた時期については、改造によって取り払われた部材の痕跡を隠すために使用した「カブセ」という小部材の裏に、当時の大工が書いた「墨書[ぼくしょ]」が発見されたことによります。そこには「安政五戌年午歳五月吉日 大工 羽黒町清八造之」と記されていました。こうした職人による墨書や落書きによって建築年代や改造年代が判明することは珍しいことではありませんが、この場合の大工清八の墨書は、建設当初からのものではなく改造時のものであり、当初の建物が建設されたのは、おそらくもう50~60年前にさかのぼると思われます。 では、建設当初はどのような形態であったかというと、本来は2棟続きの《長屋形式》の住宅でした。そして、何か特別な事情が背景にあったのか、その2棟続きの長屋住宅の一方の材料を活用しながら、安政5年に《一戸建形式》に改造したものといえます。 (村上市郷土資料館)

狭の渡正跡[せばのわたしせいせき]

旧貝附村国道筋に建てられた石碑。「越後なる せばの渡しの 朝嵐 昨日も吹いて 今日も吹くなり」という古歌が刻まれています。碑が建てられている付近は景色が良く、古歌に詠まれた景勝地として有名です。

桃川のおたきさま

根古屋沢に形成された落差5mほどの滝で、国道290号脇の駐車場からも望むことができます。2018年に新潟県県民生活・環境部 環境対策課が新たに選定した「新潟県の名水」の一つでもあります。 【おたき さま】※駐車場に設置されている案内板より 関川村と境を接する広大な山塊の幾筋もの沢の水を集め、根小屋沢(ねごやざわ)を流れ下った川が、ここで男滝と女滝の2段の大きな滝となって流れ落ちています。見えている滝は2段目の滝で、1段目の滝はこの少し上流にあります。 滝の左手前に見える小さなコンクリート製の祠が現在の多伎(たき)神社です。ご祭神は「阿多加夜努志多伎吉比売命(あたかぐぬしたぎひめのみこと)」と伝わっています。古代の人たちは、稲作の命である水が囂々と流れ落ちるこの2段の滝に神の存在を感じてお祀りし、それがやがて多伎神社というかたちに整えられたと考えられます。 桃川の人たちは、この滝と多伎神社に畏敬と親しみをこめて、この場所をいつからか「おたきさま」と呼び慣わしてきました。右側の崖には、横が約2.5m、縦と奥行が共に約2mもある大きな岩屋が穿たれています。この岩屋の中に多伎神社の祠があったという言い伝えもありますが、中世の時代に流行した山岳修験道に関係した遺跡である可能性もあります。 今の小さな祠がある場所に、明治時代まで二間四方の社殿が建っていたという言い伝えがあります。この言い伝えを裏付けるように、その社殿が鳥居に掲げられていたと考えられる明治2(1869)年作の立派な多伎神社額が現存しています。 江戸時代に、延喜式内社桃川神社に神主として代々奉仕した佐藤辰左衛門(たつざえもん)家に伝わった文書には、「(桃川神社と多伎神社は)二神共ニ延喜式之霊跡(えんぎしきのれいあと)也」、「桃川神社 多伎神社、延喜式内旧社(えんぎしきないきゅうしゃ)」などと記されています。このことは、平安時代の延長5(927)年に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に記載される「磐船郡八座(いわふねぐんはちざ)」の「多伎神社」は、この「おたきさま」の多伎神社であるという伝承や確信が、古くから桃川にあったことを物語っています。(平成28年8月 桃川区)

村上市指定文化財 旧藤井家住宅

【2025.12.18更新|2025-26 年末年始の開館状況】 旧岩間・嵩岡・藤井家住宅は12/27(土)~1/4(日)休館いたします ※1/5(月)から通常開館します ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 現存する直屋の武家住宅としては最も大きく、解体調査時に嘉永3(1850)年の棟札が発見されました。城下絵図では重野兵馬の屋敷とあり、明治30年代に藤井氏が取得したものです。 【藤井家住宅の履歴】 旧藤井家住宅が建てられたのは、建物に使用されていた梁の仕口に記されていた墨書から、江戸時代後期の嘉永3(1850)年と推定される。 元、この住宅は内藤家家臣 重野氏の屋敷で、代々250石を給され、者頭役や普請奉行などを務めた、内藤藩では中級上位の武士であった。明治維新後、重野氏は村上を離れることになるが、その後この住宅は、明治35~36(1902~03)年頃に藤井氏の所有となる。 【藤井政紀(医師)】 慶応2(1866)年、村上町の医師・藤井唐民の第6子として出生。明治19(1886)年、県立新潟医学校を卒業して、東京順天堂医院の佐藤進に学び、東京顕微鏡院での研修の後、浜田産婦人科で浜田玄達について産婦人科を学ぶ。帰郷して村上本町堀片で産婦人科の医院を開業。明治37(1904)年、独力で自宅内に私立村上産婆学校を創立し、岩船郡下の助産婦の養成を開始する。しかし、病弱のため大正10(1921)年これを廃止する。大正14(1925)年没。享年60歳。(村上市史より抜粋) この時、藤井氏は武家住宅であったものに大幅な増改築を行っている。特に診療所や病室、2階の産婆学校の教室等がこれである。また、この増築に併せて、診療室や病室と主屋の接続部分、台所・浴室等の水廻り部分、座敷・居室など住宅全体にわたって改造されたことが判明している。 (中略) 政紀氏は大正14年に静養先の東京池袋で没するが、その後病院は、藤井卯門氏によって継続されていたようで、昭和8(1933)年に病院を改築した際に、東京の藤井班象氏から村上の卯門氏へ、修繕費の内金の受領書が、改築前図面と共に残されていた。 そして、この昭和8年に改築された姿が、ほぼ解体調査前の姿に引き継がれてきたものと考えられる。 そして平成7(1995)年に、この住宅は東京都在住の藤井氏から村上市に寄付され、土地については村上市が取得し、解体調査と保存工事が行われ、平成10(1998)年に現在の姿に復原され公開されている。 武家住宅としては、重野氏の屋敷跡であるが、この住宅が村上市に寄付されたときの所有者である藤井氏の意思を尊重して、住宅の名称も「旧藤井家住宅」とした。 (村上市郷土資料館)

九品仏 上品上生 善沢寺前

宝暦8(1758)年頃から宝暦10年頃にかけて、城下の安寧と藩主・内藤信成侯150回忌のため、城下の要所に建てられた石仏です。「九品」とは、極楽浄土の九つの階級のことで、九品仏は浄土におられる阿弥陀様の姿。上品上生から下品下生を示すのは「手の印の結び方」によります。2時間位で全部を見て回れます。

専念小路

庄内町から杉原に至る道。沿道にある専念寺に由来する。この通りには、善龍寺と専念寺が並んでいる。善龍寺は浄土真宗で寛永16(1639)年創立。専念寺は浄土宗鎮西派で元和7(1621)年創立。 専念寺には「千体仏」と呼ばれる千体のお地蔵様がある。二度の火災で焼失したが、明治29(1896)年から3年かけて復興した。本堂には地獄絵図が掛けてある。また、本堂前には九品仏(くほんぶつ)の一つである阿弥陀如来の石像がある。元は同町内の養楽院にあった。この小路が専念小路と呼ばれるようになったのも、それだけ参詣人が多かったのであろう。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

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