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イベント情報

越後村上 皐月の庭と町屋通り巡り

芸術・文化

2025年5月11日(日)

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「町屋の演奏会」演奏スケジュール

「越後村上 町屋通り」が多彩な催しで賑わいます!

越後村上 町屋通りを会場にイベントを開催します。お庭を拝見できる初夏の町屋通りを楽しんでみませんか? イベントやプレゼントも盛りだくさん、ぜひお越しください。

▶内容
・町屋通りで使える商品券(300円)を先着500名様にプレゼント
※商品券は当日のみ有効です
※当日10:00~配布(なくなり次第終了)
※大光銀行前・第四北越銀行前で配布します
・アウトドアブランド「snow peak」のキャンプギア展示
・キッチンカー、マルシェ出店
・町屋の演奏会
おすすめ! ▶BSNラジオ「A Laid-back Life ー旅するテントー」公開収録
会場:村上おかだクリニック(村上市大町3-25-2)駐車場
※番組OAは5/25(日)17:30~予定
住所 村上市・越後村上 町屋通り(村上市中央商店街)
電話番号 090-3491-0135(村上市中央商店街振興組合・稲垣) 090-3491-0135(村上市中央商店街振興組合・稲垣)
開催期間 2025年5月11日(日)
開催時間 9:00 ~ 16:00
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約4分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から徒歩で約25分
駐車場(台数) 市内の観光駐車場等をご利用ください
大きなマップで目的地までのルートチェック

関連スポット

大葉山 普済寺[だいようざん-ふさいじ]

【2025.04.18更新|回遊式日本庭園の改修について】 現在、普済寺の回遊式日本庭園は改修工事を行っています。改修期間中は庭園公開を休止します。公開再開は2026年の春頃を予定しています。ご理解・ご了承のほどお願い申し上げます。 ----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 庭園公開期間あり(春・秋)。また、ご連絡をいただければ随時公開いたします。講演会・お茶会・田舎(のお寺)に泊ろう! コンサート等、イベント開催いたします。 ※庭園公開は2026年春頃まで休止

九品仏 下品下生 上片町地蔵堂境内

宝暦8(1758)年頃から宝暦10年頃にかけて、城下の安寧と藩主・内藤信成侯150回忌のため、城下の要所に建てられた石仏です。「九品」とは、極楽浄土の九つの階級のことで、九品仏は浄土におられる阿弥陀様の姿。上品上生から下品下生を示すのは「手の印の結び方」によります。2時間位で全部を見て回れます。

大川のコド漁

山北地区の勝木川や大川にも晩秋~初冬にかけ、たくさんの鮭が群れをなして帰ってきます。なかでも、大川は昔から鮭漁が盛んに行われ、毎年鮭漁の時期を迎えると、鮭が帰ってくるのを心待ちにしていた漁師たちで川原もにぎわい、活気づきます。 大川の鮭漁は、古くから伝えられている「コド漁」という漁法で行われており、この漁法は、全国的にも他に類を見ない大川独特のものです。漁の最盛期は10~12月中旬で、時期になると大川の河口付近はコドで埋め尽くされます。

野澤食品工業

事前に連絡をもらいましたら、塩谷の町屋をご案内いたします。 ≫野澤食品工業 店舗兼主屋が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました 平成28(2016)年8月1日、旧マルマス醬油蔵・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ≫野澤食品工業 店舗兼主屋の特徴 南北に延びる道沿いに西向きの屋敷は、間口11間(約20メートル)、奥行き47間(約85.5メートル)で、地域では最も大きい屋敷です。建物は木造で、船枻切り妻造り一部2階建て下屋根付きの妻入り型で、この地域の特徴的な造りとなっています。茶の間の明かり取りは、通り土間の明かり取りも兼用された構造となっていて、大変珍しいです。 (『塩谷ガイドブック』より)

飯野山 龍皐院[いいのさん-りゅうこういん]

創立は文安3(1446)年(室町時代中期・室町幕府八代将軍 足利義政の時代)。後に、耕雲寺5世に晋住される徳嶽宗欽[とくがくそうきん]大和尚が草庵を結び、九皐庵と称して山居されたことがはじまりである。 開山没後、新発田の宝積寺[ほうしゃくじ]より、法孫の瑚珊文愛[こさんぶんあい]和尚が来て、山号を飯野山と定め、寺号を龍皐院と改めて中興し、今日に至っている。 現在の本堂・庫裏は平成2(1990)年に、山門は平成9(1997)年に改築されたものである。 山門前には、享保2(1717)年造立の地蔵菩薩立像がある。その近くには、三ツノ山(江戸時代の力士)の墓碑がある。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

稲荷山(番所山)

江戸時代、塩谷は村上城下と北国街道を結ぶ重要拠点であり、村上藩はこの山に番所を置いて、人や物の出入りを監視していました。そのため、番所山[ばんしょやま]と呼ばれていましたが、明治になり、廃藩とともに番所も廃されました。その後、お稲荷さんが祭られていることから「稲荷山」と呼ばれるようになりました。 山頂には三等三角点があり、国土地理院の2万5千分の1電子地形図にも「稲荷山」として掲載されており、新潟県で一番低い(標高15.3メートル)山です。37段の階段を上った山頂の展望台からは、塩谷のまち並みや日本海に浮かぶ粟島や佐渡、南西には弥彦山、角田山が海に浮かぶ島のように見えます。

伊夜日子神社[いやひこ-じんじゃ]

瀬波温泉 噴湯公園(明治37年に温泉が噴出した温泉源泉井戸がある公園)内にあり、越後一宮 彌彦神社(西蒲原郡弥彦村)の御神霊を分霊して祭っています。本殿から、さらに石段を上っていくと奥の院があり、そこからは瀬波の温泉街や日本海が一望できます。

牢屋小路

牢屋小路という名前の通り、かつては牢屋があった。現在は加賀町まで通り抜けられるが、当時はできなかった。 牢屋は武家地にあることから藩が直接管理していた。榊原氏当時もここは牢屋であった。牢屋の先に「川原作事」とあり、人足寄場(にんそくよせば)のようなものがあったのではないかと思われる。 明治維新時代の村上絵図では、加賀町との間には堀があるが、現在は清水川であり、橋が架かっていて、かつては「なみだ橋」または「見返り橋」と呼ばれていた。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より 榊原候時代の村上城下絵図をひろげると、庄内町から加賀町の方にぬける路のところに「御材木蔵」とあり、その横の小路を入った奥に「籠屋」と書かれています。これは牢屋があったところです。どんな建物であったのかは資料が残っていないのでわかりませんが、テレビによく出る江戸は伝馬町の牢屋を小さくしたようなものだったのでしょうか。 鈴木鉀三 著『村上市歴史散歩』より抜粋

村上市指定文化財 旧嵩岡家住宅

直屋・寄棟造りの住宅で、平成8(1996)年に現在地に移築復原されました。この建物は、玄関を入るとすぐに茶の間があり、隣に主人の接客と居室を兼ねた座敷を備え、接客と居住空間の明確な区別がありません。また、上屋の梁間が二間半ということから、隣の旧岩間家住宅と比較すると茅葺き屋根が大きく見えるのが特徴です。 ▶旧嵩岡家住宅の解体格納と復原の経緯 旧嵩岡家住宅の屋敷は現在の村上市新町にありましたが、昭和62(1987)年に宅地造成のために解体されることになりました。その解体に際にして、村上市に現存する数少ない武家屋敷の一つであること、比較的保存状態が良かったことなどから、解体されることを前提としながらも、村上市教育委員会はこの旧嵩岡家住宅を市の有形文化財としての指定を行いました。 これによって建築部材の格納保存を目的とした解体調査工事と復原調査が行われ、主要な小屋組部材、軸部材及び天井部材などの内部造作材の保存格納が行われました。 平成5(1993)年、皇太子殿下と小和田雅子様の御成婚を記念しての記念公園整備事業が平成6(1994)年より計画着手されましたが、嵩岡家が小和田家と縁戚関係にあることから、この記念公園整備事業の目玉として旧嵩岡家住宅の復原が行われることとなりました。そして、この御成婚を記念した公園内には、この旧嵩岡家住宅のほか、旧岩間家住宅、さらには旧藤井家住宅の3棟の武家屋敷が復原されることとなりました。 (村上市郷土資料館) ▶嵩岡家と旧嵩岡家住宅 旧嵩岡家住宅が村上市新町にあったことはすでに述べましたが、この新町地内は、江戸時代には主に中下級武士が集住していた地区です。 嵩岡家については、天明7(1787)年の分限帳によると江戸藩邸詰めの武士の中に「平侍百石嵩岡泰蔵」とあります。また、明治初年の村上士族名寄帳によると「給人百石嵩岡小太郎」とあります。そして、明治初年に書き改められた城下絵図には、ちょうどこの場所に「嵩岡五郎左衛門」と記載されています。これらのことから嵩岡家は代々百石を給されていたと考えられ、村上藩では中級に位置する武士でした。 武家屋敷の基本的な性格として、次のことが挙げられます。 ①官舎的性格を有していること ②厳しい建築規制があること ③閉鎖的な屋敷構えであること また、拝領する屋敷の位置や建物の大きさや構造などの基準となるのは、その武士の禄高や身分格式でした。このようなことから復元された旧嵩岡家住宅の構造や間取りなどについては、この復原住宅がそのまま村上藩における百石クラスの武士住宅と即断することはできません。 それまで住んでいた屋敷が火災にあった際、藩は新しい家を調達するだけの余裕がなかったので番所を住宅に充てたという事例があります。この嵩岡家についても、例えば江戸から帰藩した際に、急遽屋敷を賜ったというような特殊な事情があったのではないかと考えられますが、残念ながらその特殊事情を裏付けるようなものは発見されていません。 (村上市郷土資料館)

村上市指定文化財 旧成田家住宅

村上で現存している武家住宅の中では、唯一玄関が妻側に位置する形態で、建築年代は幕末から明治にかけてと推定され、平成8(1996)年に復原後、一般公開されています。 ▶旧成田家住宅と『諸国廻遊日録』 旧成田家住宅は、現在の村上市新町にある。ここは、江戸時代の内藤氏治政世下においては旧武家町に属し、村上城本丸に通じる下渡門[げどもん]の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところである。 『諸国廻遊日録』とは、九州佐賀藩士・牟田高惇という侍が、武者修行で諸国を巡り歩いたときの日記のようなもので、その日記によると、嘉永7(1854)年7月頃に村上にも立ち寄り、七夕祭りなどのことが記載されている。このとき、牟田高惇が宿としたところが、当時は空き家であった「元岡本左太夫」の屋敷であったことが日記にあり、明治初年の城下絵図にも、旧成田家住宅の位置には岡本左太夫という名前があり、これが現在の位置に比定される。 しかし、明治の村上藩士の分限帳(名簿)には、この岡本左太夫という名前は見当たらないことと、牟田高惇が訪れた頃、すでに空き家であったことから、どのような武士が住んでいた住宅であったかは現在のところ不明である。 (村上市郷土資料館) ▶旧成田家住宅と復原調査 この住宅の構造形式は、直屋[すごや]・寄棟造・茅葺であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえるが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入りの玄関であるのに対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴であるといえる。 また、建物の改造痕跡や技法などの調査からも、これまでに若林家や嵩岡家、岩間家などとは異なる面がかなりあり、特に技法的には一段と進んだ方法が見られる。さらに、先の『諸国廻遊日録』には、元岡本左太夫の住宅間取りも記載されているが、この記述と復原調査からの間取りとも合致しない点がかなりある。 このようなことから、『諸国廻遊日録』にある屋敷を前身建物として、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、従来の武家住宅の建築方法や技法を踏襲しながら、新たに建て替えられた再生武家住宅であるという考え方もできる。いずれにしろ、この住宅が江戸時代から明治時代へと移り変わるときに建築されたことを考えるならば、村上の住宅の歴史や変遷を理解する上で貴重な歴史的建造物であることには間違いはない。 (村上市郷土資料館)

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