HOME > イベント情報 > 【最終回】第25回 むらかみ宵の竹灯籠まつり

イベント情報

【最終回】第25回 むらかみ宵の竹灯籠まつり

芸術・文化

2026年10月10日(土)・11日(日)

過去の開催の様子

過去の開催の様子

過去の開催の様子

竹灯籠の灯りがつなぐ、人と地域の絆

「むらかみ宵の竹灯籠まつり」は、25周年を迎える今年度でフィナーレを迎えます。最後となることしのまつりでは、四半世紀にわたり支えてくださった地域の皆様への深い感謝を込めて、これまでで最も美しく、幻想的な明かりを灯します。皆様の心に温かく刻まれる特別な一夜を、ぜひご一緒に見届けてください。

-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

城下町の風情漂う黒塀通り(安善小路)に、手作りの竹灯籠を並べて中に火を灯します。揺らめく竹灯籠の明かりの中で夜の散策を楽しんだり、町屋・寺社などで奏でられる地元ミュージシャンの演奏をお楽しみください。
※小雨決行

≫ボランティア募集
このイベントは、どなたでも参加できる「まちづくりイベント」です。参加を希望される方は、公式サイト(下記URL)、または下記ちらしをご覧いただき、ぜひお申し込みください。

≫ディスプレイチャレンジャー募集
「ディスプレイチャレンジャー」とは、会場エリア内の決められた場所において、独自の発想のもと、竹灯籠の展示作品を作ることができる、今までになかった参加形態です。ご家族やご友人、職場の仲間同士でチャレンジしてみませんか? 詳しくは公式サイト(下記URL)をご参照ください。
住所 村上市・黒塀通り(安善小路)とその周辺界隈
電話番号 0254-53-2258(村上駅前観光案内所「むらかみ旅なび館」)※9:00~17:00 0254-53-2258(村上駅前観光案内所「むらかみ旅なび館」)※9:00~17:00
開催期間 2026年10月10日(土)・11日(日)
開催時間 【点灯】16:30~ 【演奏】17:30 ~ 20:30
URL https://taketourou.com/
アクセス(車) 日本海東北自動車道「村上瀬波温泉IC」から車で約5分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「村上駅」から徒歩で約25分
駐車場(台数) 市内の観光駐車場をご利用ください
主催者 宵の竹灯籠まつり実行委員会、チーム黒塀プロジェクト
大きなマップで目的地までのルートチェック

関連スポット

孫惣刃物鍛冶[まごそう-はものかじ]

かつては40を越える鍛冶屋が軒を連ねていた村上市鍛冶町。昔ながらの仕事場を残し、現存する建物が最後の一軒となったため、街角博物館として再生されました。 館内では、かつて使われていた鍛冶道具などを展示公開。また、例年「城下町村上 町屋の人形さま巡り」や「城下町村上 町屋の屏風まつり」などのイベントでは、仕事場奥の茶の間に、かわいらしい土人形や屏風も飾られます。

大川のコド漁

山北地区の勝木川や大川にも晩秋~初冬にかけ、たくさんの鮭が群れをなして帰ってきます。なかでも、大川は昔から鮭漁が盛んに行われ、毎年鮭漁の時期を迎えると、鮭が帰ってくるのを心待ちにしていた漁師たちで川原もにぎわい、活気づきます。 大川の鮭漁は、古くから伝えられている「コド漁」という漁法で行われており、この漁法は、全国的にも他に類を見ない大川独特のものです。漁の最盛期は10~12月中旬で、時期になると大川の河口付近はコドで埋め尽くされます。

村上市指定文化財 旧藤井家住宅

現存する直屋の武家住宅としては最も大きく、解体調査時に嘉永3(1850)年の棟札が発見されました。城下絵図では重野兵馬の屋敷とあり、明治30年代に藤井氏が取得したものです。 【藤井家住宅の履歴】 旧藤井家住宅が建てられたのは、建物に使用されていた梁の仕口に記されていた墨書から、江戸時代後期の嘉永3(1850)年と推定される。 元、この住宅は内藤家家臣 重野氏の屋敷で、代々250石を給され、者頭役や普請奉行などを務めた、内藤藩では中級上位の武士であった。明治維新後、重野氏は村上を離れることになるが、その後この住宅は、明治35~36(1902~03)年頃に藤井氏の所有となる。 【藤井政紀(医師)】 慶応2(1866)年、村上町の医師・藤井唐民の第6子として出生。明治19(1886)年、県立新潟医学校を卒業して、東京順天堂医院の佐藤進に学び、東京顕微鏡院での研修の後、浜田産婦人科で浜田玄達について産婦人科を学ぶ。帰郷して村上本町堀片で産婦人科の医院を開業。明治37(1904)年、独力で自宅内に私立村上産婆学校を創立し、岩船郡下の助産婦の養成を開始する。しかし、病弱のため大正10(1921)年これを廃止する。大正14(1925)年没。享年60歳。(村上市史より抜粋) この時、藤井氏は武家住宅であったものに大幅な増改築を行っている。特に診療所や病室、2階の産婆学校の教室等がこれである。また、この増築に併せて、診療室や病室と主屋の接続部分、台所・浴室等の水廻り部分、座敷・居室など住宅全体にわたって改造されたことが判明している。 (中略) 政紀氏は大正14年に静養先の東京池袋で没するが、その後病院は、藤井卯門氏によって継続されていたようで、昭和8(1933)年に病院を改築した際に、東京の藤井班象氏から村上の卯門氏へ、修繕費の内金の受領書が、改築前図面と共に残されていた。 そして、この昭和8年に改築された姿が、ほぼ解体調査前の姿に引き継がれてきたものと考えられる。 そして平成7(1995)年に、この住宅は東京都在住の藤井氏から村上市に寄付され、土地については村上市が取得し、解体調査と保存工事が行われ、平成10(1998)年に現在の姿に復原され公開されている。 武家住宅としては、重野氏の屋敷跡であるが、この住宅が村上市に寄付されたときの所有者である藤井氏の意思を尊重して、住宅の名称も「旧藤井家住宅」とした。 (村上市郷土資料館)

西奈彌羽黒神社[せなみ-はぐろじんじゃ]

一般的には略して羽黒神社と呼んでいます。祭神は奈津比売命[なつひめのみこと]・倉稲魂命[うがのみたまのみこと]・月読命[つきよみのみこと]です。 寛永10(1633)年、ときの村上藩主・堀丹後守直竒が神社を上(城)から見下ろすのは畏れ多いとして現在の地に遷宮しました。この遷宮祭が行われたのが6月7日で、新暦になってからは7月7日に大祭が行われています。 元禄3(1690)年に村上藩主・榊原勝乗が建立した社殿(神明宮)は、昭和44(1969)年に新潟県指定有形文化財に指定されています。

村上城跡(お城山)

村上城は、標高135mの独立峰・臥牛山[がぎゅうさん]に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前期には城が存在していたものと考えられます。戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11(1568)年の上杉謙信との篭城戦など、幾度も戦いが繰り広げられました。江戸時代に入ると、村上氏・堀氏・松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後の中心拠点として整備されました。 山頂までの道は整備され、約20分ほどで登ることができます。村上のシンボルとして近隣住民はもちろん、観光客もたくさん訪れる名所です。 ≫ご注意ください ・ゴミ箱は設置されていません。出たゴミは必ずお持ち帰りください ・山頂(天守跡)に自動販売機やトイレはありません。自動販売機は登城口に、トイレはお城山児童公園をご利用ください ・音の出るもの(熊鈴・ラジオ等)を携行し、複数人で行動するなど、クマとの遭遇を避ける対策を行ってください

黒塀通り(安善小路)

城下町の風情が漂う、黒塀が続く小路です。通りには寺院や有名割烹が立ち並び、歴史と趣が感じられます。例年10月の第2土・日曜日には「むらかみ 宵の竹灯籠まつり」の会場になり、揺らめく約2万本もの竹灯籠の明かりと各所で奏でられる音楽に酔いしれる人々でにぎわいます。 ▶安善小路について 小町[こまち]から寺町へ抜ける小路。ここは古くから安善小路[あんぜんこうじ]と呼ばれていた。 安善寺に由来する。安善寺は浄土真宗大谷派。明暦元(1655)年創立。安善寺の寺伝によると、この土地は榊原公から拝領したものとある。 その榊原氏が城主の頃の『元禄村上城下絵図』には、安善寺と小路が描かれている。現在、黒塀小路(または黒塀通り)と呼ばれることもあるが、これは景観整備で黒塀を設置したもので当時はない。また、小町側の村上信金金庫 本店辺りは堀氏時代の絵図には「馬ヤ町」の記載があり、「お馬や小路」と呼ばれていた。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

小俣白山神社の大杉(姥杉)

樹齢千二百年と推定される大杉で、樹種は熊杉系。根廻り13.4m・樹高39mの大きさで、県内でもまれにみる老杉です。白山姫命を祭るこの神社は、昔は小俣集落の佐藤一族の氏社でしたが、今は全集落民の氏社となっています。白山神社では、生まれた子どもが初めて氏神様と対面する時、この大杉の下で泣かせて、子の行く末を祈る風習が残っています。

大葉山 普済寺[だいようざん-ふさいじ]

回遊式日本庭園は公開期間(春・秋)あり。また、ご連絡をいただければ随時公開いたします。坐禅会や写経などの仏教を学ぶ勉強会、お茶会、演奏会、精進料理等を楽しんでいただけるイベントも開催しています。

桃川のおたきさま

根古屋沢に形成された落差5mほどの滝で、国道290号脇の駐車場からも望むことができます。2018年に新潟県県民生活・環境部 環境対策課が新たに選定した「新潟県の名水」の一つでもあります。 【おたきさま】※駐車場に設置されている案内板より 関川村と境を接する広大な山塊の幾筋もの沢の水を集め、根小屋沢[ねごやざわ]を流れ下った川が、ここで男滝と女滝の2段の大きな滝となって流れ落ちています。見えている滝は2段目の滝で、1段目の滝はこの少し上流にあります。 滝の左手前に見える小さなコンクリート製の祠が現在の多伎[たき]神社です。ご祭神は「阿多加夜努志多伎吉比売命[あたかぐぬしたぎひめのみこと]」と伝わっています。古代の人たちは、稲作の命である水が囂々と流れ落ちるこの2段の滝に神の存在を感じてお祀りし、それがやがて多伎神社というかたちに整えられたと考えられます。 桃川の人たちは、この滝と多伎神社に畏敬と親しみをこめて、この場所をいつからか「おたきさま」と呼び慣わしてきました。右側の崖には、横が約2.5m、縦と奥行が共に約2mもある大きな岩屋が穿たれています。この岩屋の中に多伎神社の祠があったという言い伝えもありますが、中世の時代に流行した山岳修験道に関係した遺跡である可能性もあります。 今の小さな祠がある場所に、明治時代まで二間四方の社殿が建っていたという言い伝えがあります。この言い伝えを裏付けるように、その社殿が鳥居に掲げられていたと考えられる明治2(1869)年作の立派な多伎神社額が現存しています。 江戸時代に、延喜式内社桃川神社に神主として代々奉仕した佐藤辰左衛門[さとう-たつざえもん]家に伝わった文書には、「(桃川神社と多伎神社は)二神共ニ延喜式之霊跡[えんぎしきのれいあと]也」、「桃川神社 多伎神社、延喜式内旧社[えんぎしきないきゅうしゃ]」などと記されています。このことは、平安時代の延長5(927)年に編纂された『延喜式神名帳[えんぎしきじんみょうちょう]』に記載される「磐船郡八座[いわふねぐんはちざ]」の「多伎神社」は、この「おたきさま」の多伎神社であるという伝承や確信が、古くから桃川にあったことを物語っています。(平成28年8月 桃川区)

重要文化財 若林家住宅

二百数十年前に建設され、その後、復原された若林家住宅。若林氏は、村上藩で物頭[ものがしら]役150石で中級上位の家柄に属します。曲屋[まがりや]づくりの茅葺平屋建で、部屋割りも細かく、典型的な中級武家住宅の特色を伝えていることから重要文化財に指定されました。市の文化財に指定されている、庭園の四季折々の表情もご覧ください。 【若林家住宅とは】 若林家住宅は、今から二百数十年前から明治期まで、村上藩士・若林家とその子孫の生活の舞台であった建物である。 若林家が内藤家に召し抱えられたのは延宝2(1674)年で、天和2(1682)年には内藤分家の家老職を務め200石を給されていた。その後、内藤本家に再任され、150石に減ぜられたが、内藤家中の中級上位の藩士として、大目付、長柄[ながえ]奉行、普請奉行、町奉行、三条奉行などの要職に就いている。 天明7(1787)年の『越後村上分限帳』では、筆頭家老から12番目「者頭(物頭)」の項に下記のような記述があることから、現在地の若林家住宅に生活するようになった頃には150石者頭役で、18人の足軽を指揮していたことが知られる。 一 百五拾石  若林七太夫 一 金三両弐分二人扶持  小頭 野崎文吉 一 金三拾七両三拾四人扶持 内弐両弐分取六人 足軽十七人 また、昭和6年編纂の『村上郷土史』所収の禄高順記載による「村上藩士一覧表」には、「給人百五十石 若林佐市郎」とあり、足軽まで含めた総藩士731人の家臣(内 石取藩士は約150人)の上から54番目(石取藩士の中級上位)に記されている。 旧村上藩「者頭」若林家住宅には、私的居住部分と者頭の役宅部分からなっていることが知られる。 (村上市郷土資料館)

先頭に戻る