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野澤食品工業

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塩谷の町屋

手作りのみそ・しょうゆ工場が見学できます。また、江戸時代に建てられた住宅も見られます

事前に連絡をもらいましたら、塩谷の町屋をご案内いたします。

≫野澤食品工業 店舗兼主屋が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました
平成28(2016)年8月1日、旧マルマス醬油蔵・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

≫野澤食品工業 店舗兼主屋の特徴
南北に延びる道沿いに西向きの屋敷は、間口11間(約20メートル)、奥行き47間(約85.5メートル)で、地域では最も大きい屋敷です。建物は木造で、船枻切り妻造り一部2階建て下屋根付きの妻入り型で、この地域の特徴的な造りとなっています。茶の間の明かり取りは、通り土間の明かり取りも兼用された構造となっていて、大変珍しいです。
(『塩谷ガイドブック』より)
おすすめ! ゴク旨みそ、さしみ醤油
住所 村上市塩谷1227
電話番号 0254-66-5507 0254-66-5507
FAX 0254-66-8807
メールアドレス info@nozawa-shokuhin.co.jp
URL https://www.nozawa-shokuhin.co.jp/
営業時間 9:00~17:00
アクセス(車) 日本海東北自動車道「神林岩船港IC」から車で約8分
アクセス(電車・バス) JR羽越本線「坂町駅」から車で約10分
駐車場(台数) 3台
定休日 土・日曜日、祝日
予約 不要
カード 不可
ペット可 不可
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関連スポット

小俣宿

かつて日本の主要道であった出羽街道の宿場町として、出羽三山への参拝者など多くの人々が訪れました。明治維新では戊辰戦争の戦場となり、集落のほとんどが焼き払われましたが、その跡に再建された家々が現在も残っており、この貴重な小俣集落のまち並みをつくっています。心のふるさとを感じさせてくれる趣があります。

専念小路

庄内町から杉原に至る道。沿道にある専念寺に由来する。この通りには、善龍寺と専念寺が並んでいる。善龍寺は浄土真宗で寛永16(1639)年創立。専念寺は浄土宗鎮西派で元和7(1621)年創立。 専念寺には「千体仏」と呼ばれる千体のお地蔵様がある。二度の火災で焼失したが、明治29(1896)年から3年かけて復興した。本堂には地獄絵図が掛けてある。また、本堂前には九品仏(くほんぶつ)の一つである阿弥陀如来の石像がある。元は同町内の養楽院にあった。この小路が専念小路と呼ばれるようになったのも、それだけ参詣人が多かったのであろう。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

地蔵様小路

久保多町(くぼたまち)の通りから北に入る小路で、久保多町の地蔵様に通ずる小路を称す。さらに、この小路を左に曲がると秋葉神社に至る。 江戸時代頃の城下絵図には、現在の道筋に加え、地蔵様から右にも小路が続き、片町の「はんにむ小路」に通じていた。元禄時代、榊原氏の頃の城下絵図では、この小路の北側(川寄り)には下級武士の組屋敷があったため、小路としては比較的長い道筋となっている。 市道路線名は「萱場(かやば)線」で、萱場があった。地蔵様は萱場地蔵と呼ばれる。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

旧マルマス醬油蔵(旧野澤豊五郎醸造醬油蔵)

明治初期からしょうゆの醸造を手掛けていましたが、平成15(2003)年に廃業。百数十年の歴史に幕を降ろしました。 現在は、蔵の大空間を利用した多目的ステージやカフェスペースとして利用されており、イベント時などに開放しています。また、平成27(2015)年7月には、映画『殿、利息でござる!』の撮影が行われました。 平成28(2016)年8月1日、塩谷集落内の野澤食品工業店舗兼主屋・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。

早撰堂

江戸時代から続く、国の登録有形文化財に指定された大正ロマンあふれる和菓子店。建物は明治26(1893)年建築、平成16(2004)年に町屋再生プロジェクト第1号として外観を大正時代風に改装しました。箱階段に組み込まれた金庫の重厚さが目を引きます。

平林不動滝

国指定史跡の平林城跡のある神林地区・要害山中にある。要害山には至るところに清水が湧出しており、それらが流れ込み不動滝を形成している。滝つぼの奥には岩を削って造られた祠があり、数百年前から大日如来と不動明王の石像が童子石像とともに安置されている。 「新潟県の名水 関川村・村上市 県北名水巡りマップ」(新潟県)より抜粋 【備考】 ●不動滝登山道 駐車場(古刀比羅[金比羅]神社前)から不動滝までは徒歩で約50分です。 ●滝へと至る山道(不動滝登山道)は、ぬかるんでいたり、急な上り下りもあるので、履きなれた靴(登山靴がオススメ)でお越しください。 ●クマやヘビ、ハチといった危険動物・昆虫に十分ご注意ください。 【不動滝と目薬の由来について】 永禄の昔、色部氏第13代勝長が、上杉謙信の命により川中島合戦の出陣に際し、領内の安泰と戦勝を祈願するため、不動滝に祠を築造し、そこへ大日如来と不動明王の石像を安置されたものと推測されている。 また、天正時代、信州松本の名家・小笠原貞慶一族が、色部氏を頼って家臣となり、小笠原家伝来の軍法・兵法・馬術、さらに目薬の製法に至るまで色部氏に伝授した。 これにより、色部氏は領民のため、不動滝の真水(まみず)を用い、目薬の開発に努めたという。以来、不動滝の水滴が眼病に効能ありとして、無病息災・家内安全等のご利益を求めて、また村人たちの心の拠り所として、多くの参拝者が訪れたと伝えられている。 【お不動様の起源およびご利益】 一、家運隆盛 一、心願成就 一、徐災招福 一、身体健護 当不動堂の創建は不明であるが、江戸時代後期1813年、権三郎が再建したという文献上の記録がある。以来、村人たちは唯一信仰の場として崇拝してきた。しかし、昭和42年の羽越水害により不動堂および林道山沿い線(参道)は壊滅的被害を受けた。昔から幾多の破壊と補修の試練を乗り越え、この度ようやく参道の改修工事が完了し、不動堂の新築再建に併せ新刻された不動明王立像を奉迎安置したところである。 一方、平安時代初期806年、弘法大師空海が中国より帰朝し、日本に真言宗を開宗した。その後、大日如来を真言密教の根本尊と定めた不動明王は、大日如来の化身であり共に表裏一体の仏様であるといわれている。 なお、不動立像は怒りの相を表現し、背には激しく燃える炎を抱え、不動不変の盤石に立ち、右手には煩悩を断ち切る降魔の利剣、左手には煩悩から抜け出せない人々を救済するための縄を持つ。これは人間が持つ煩悩五欲、つまり心身を悩ます一切の欲望・悪業を追い払い、家運を転換隆盛し招福を招来する。また、あらゆる困難を克服し、勝負に勝って心願を成就する。同時に、仏の救済を必要とするすべての生命に対して慈愛の心で子孫の繁栄を守る。 これが大日如来、不動明王が説く真言密教の教理であり、ご利益の由来であると伝えられている。

海巗山 諸上寺[かいがんざん-しょじょうじ]

寺伝によれば、大化年間(645~49)には感應寺[かんおうじ]という天台宗(真言宗とも)の寺で、石船神社の別当であった。その後、一時期廃絶したが、文明7(1475)年3月に耕雲寺5世の徳嶽宗欽[とくがくそうきん]大和尚によって再興されるが、再び荒廃する。天正元(1573)年5月にいたり、村上領主・本庄繁長[ほんじょう-しげなが]侯が巖室文松[がんしつぶんしょう]大和尚を招いて開山とし、寺号を諸上寺と定めた。 開基は村上領主・堀直竒[ほり-なおより]侯で、寺領地も堀家の寄進によるものであった。躑躅[つつじ]の咲く庭園は見事なもので、虚空蔵[こくぞう]堂が立つ。裏山には三十三番の観世音菩薩が祭られている。現在の本堂は天保元(1830)年に再興されたもの。 (「城下町村上 寺社の由来」より)

縄文の里・朝日

奥三面ダム建設によって水没した、山間奥地・三面集落で使われていた民俗資料や考古資料(旧石器時代~縄文時代)を展示。まが玉・石器・土器づくりや火おこしの体験ができます。併設の食堂「食事処 やまびこ」(例年4月下旬~11月中旬オープン)では、地元農産物を使った料理と手打ちそばが人気です。

孫惣刃物鍛冶[まごそう-はものかじ]

かつては40を越える鍛冶屋が軒を連ねていた村上市鍛冶町。昔ながらの仕事場を残し、現存する建物が最後の一軒となったため、街角博物館として再生されました。 館内では、かつて使われていた鍛冶道具などを展示公開。また、例年「城下町村上 町屋の人形さま巡り」や「城下町村上 町屋の屏風まつり」などのイベントでは、仕事場奥の茶の間に、かわいらしい土人形や屏風も飾られます。

浄念寺

文化15(1818)年に建てられた本堂は、この地方では珍しい白壁土蔵造で、日本で一番大きなこともあり、平成3(1991)年に国の重要文化財に指定されています。 建築については、防火を考えて大壁の土蔵造りとし、屋根はこけら葺きにしました。丈六の阿弥陀如来像を安置するため、棟木の高さが35尺にもなり、それにふさわしく梁間9間・桁間11間、2階部分もそれぞれ6間・9間という大きさになりました。 本尊は丈六(5m)の阿弥陀如来の座像(木像)で、この地方には類のない大きさで見事なものです。なお、本堂は間部詮房の百回忌に合わせて江戸で設計され、村上の大工の手で建築されたものです。 また、芭蕉と曽良が参詣したことでも知られています。

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