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イベント情報

塩谷の町屋散策

芸術・文化

2026年10月11日(日)

過去の開催の様子

稲荷山から見た塩谷のまち並み

町屋に飾られた掛け軸や絵皿(過去の開催の様子)

かわいい猫にも出合えるかも

村上市塩谷に残る北前船海運による交易の痕跡と繁栄の記憶をたどりましょう!

日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 〜北前船寄港地・船主集落〜」に追加認定された村上市(上海府・瀬波・岩船・塩谷・海老江)。中でも塩谷[しおや]は、海老江・桃崎浜とともに「荒川三港」と呼ばれ、江戸時代を通じて村上藩が管理し、藩の米蔵や番所が設置されていました。港ともに浜街道沿いの宿場としても発達し、活発な交易活動から酒造業や廻船業のほか、大工・船大工・桶屋などの手工業も盛んとなりました。通りに対して妻入りの建物が並ぶ塩谷のまち並みは、昔の姿をよく残しています。
この催しでは、港町の風情が色濃く残る塩谷のまちを散策し、普段はなかなか見ることができない町屋内部も公開します。

≫内容
[町屋見学]元菓子屋(野澤邸)、野澤食品工業、瀬賀商店(瀬賀邸)、円福寺、鹽竈神社、旧マルマス醤油蔵他
[町屋茶席]元菓子屋(野澤邸)で抹茶を提供(茶券800円)
・旧マルマス醤油蔵にて「しおやでJazz」(13:00~15:00予定/入場無料)開催予定
・瀬賀商店(瀬賀邸)にてフラメンコ演奏(11:00頃~)
・飲食販売 …等

≫協賛
塩谷総区まちづくり委員会、神林地区関係人口創出事業実行委員会
住所 村上市塩谷一帯
電話番号 0254-66-5551(元菓子屋) / 0254-66-5507(野澤食品工業) 0254-66-5551(元菓子屋) / 0254-66-5507(野澤食品工業)
開催期間 2026年10月11日(日)
開催時間 10:00 ~ 15:00
アクセス(車) 日本海東北自動車道「神林岩船港IC」から車で約6分
駐車場(台数) 有
主催者 塩谷活性化推進協議会
大きなマップで目的地までのルートチェック

関連スポット

野澤食品工業

事前に連絡をもらいましたら、塩谷の町屋をご案内いたします。 ≫野澤食品工業 店舗兼主屋が国の登録有形文化財(建造物)に登録されました 平成28(2016)年8月1日、旧マルマス醬油蔵・野澤三次郎住宅・瀬賀惣一郎商店兼主屋と倉庫とともに国の登録有形文化財(建造物)に登録されました。 ≫野澤食品工業 店舗兼主屋の特徴 南北に延びる道沿いに西向きの屋敷は、間口11間(約20メートル)、奥行き47間(約85.5メートル)で、地域では最も大きい屋敷です。建物は木造で、船枻切り妻造り一部2階建て下屋根付きの妻入り型で、この地域の特徴的な造りとなっています。茶の間の明かり取りは、通り土間の明かり取りも兼用された構造となっていて、大変珍しいです。 (『塩谷ガイドブック』より)

耕雲寺

耕雲寺は、応永元(1394)年に傑堂能勝禅師が開かれた寺で、傑堂の師・梅山聞本禅師を開祖としています。能勝は楠正成の孫に当たるといい、正平10(1355)年に楠正儀の次男に生まれ、名は正能と伝えられています。能勝は応永34(1427)年8月7日に73歳で耕雲寺で亡くなりましたが、その間に寺を離れたことがなく、宗門の学問に打ちこまれ、立派な弟子を育てました。 耕雲寺は末寺が80、孫寺以下を合わせると800にも及ぶという曹洞宗寺院の名刹です。

千眼寺 保呂羽堂[せんげんじ-ほろわどう]

保呂羽堂は、国指定文化財「平林城跡」の所領であった色部氏15代・色部長真[いろべ-ながざね]が天正19(1591)年に出羽国仙北郡大森町の保呂羽山波宇志別神社から当地に分霊したことにより創立され、その後の安政5(1858)年に再建されたものと伝わる。 保呂羽堂の奥行きが深く、幣殿と拝殿を前後に明確に分ける平面形式は、越後特有の形式と知られている。 総欅造 [本殿]一間社流造、桟瓦葺、向拝一間 [拝殿]入母屋造 千鳥破風付、桟瓦葺、向拝一間 軒唐破風付 [幣殿]切妻造、桟瓦葺 指定:平成19(2007)年11月20日 【村上市教育委員会】

九品仏 下品上生 安泰寺境内

宝暦8(1758)年頃から宝暦10年頃にかけて、城下の安寧と藩主・内藤信成侯150回忌のため、城下の要所に建てられた石仏です。「九品」とは、極楽浄土の九つの階級のことで、九品仏は浄土におられる阿弥陀様の姿。上品上生から下品下生を示すのは「手の印の結び方」によります。2時間位で全部を見て回れます。

小俣白山神社の大杉(姥杉)

樹齢千二百年と推定される大杉で、樹種は熊杉系。根廻り13.4m・樹高39mの大きさで、県内でもまれにみる老杉です。白山姫命を祭るこの神社は、昔は小俣集落の佐藤一族の氏社でしたが、今は全集落民の氏社となっています。白山神社では、生まれた子どもが初めて氏神様と対面する時、この大杉の下で泣かせて、子の行く末を祈る風習が残っています。

はんにむ小路

現在の北線道路北側、久保多町(くぼたまち)から片町に入る辺りから山辺里川(さべりがわ)(門前川)の堤防に通ずる小路は市道半右ェ門線であるが、小路の入り口に半右ェ門という人の家があったことから、「半右ェ門」が「はんにむ」となり、通称になったと伝えられる。 この山辺里川の河原には、罪人の打ち首を行う首切場があった。現在、この場所には供養塔が建てられている。脇にある地蔵様は「首切り地蔵」とも呼ばれる。刑を言い渡された罪人は、庄内町にあった牢屋から、市中引き回しの上、ここで刑が執行された。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

筏場通り[いかだばどおり]

庄内町から泉町に至る路で「筏場[いかだば]通り」といわれていた。筏場とは、三面川上流から筏を組んで流してきた木材の陸揚げ場で、ここから材木屋や木羽[こば]屋に運ばれた。 文政3(1820)年の『塩町軒付帳』には、木挽[こびき]9軒、木宿8軒。文久3(1861)年の『加賀町軒付帳』には、木挽11軒とある。 木挽とは、木材を製材する職人をいい、また木宿とは薪や炭を扱う薪炭[しんたん]屋をいう。 以後、近年まで塩町と加賀町には材木屋や製材所が集中していた。 村上ロータリークラブ 2017-2018 村上小古路プロジェクト発行「村上小古路マップ」より

石船神社[いわふね-じんじゃ]

「神様が天の石船[あま-の-いわふね]に乗りお出でになられた」との伝説をもつ磐舟郡総鎮守。圏域『岩船』という地名の由来となっています。創祀は大化4(648)年、磐舟柵設置以前と伝わり、御祭神は饒速日命[にぎはやひのみこと]。 大同2(807)年、北陸道観察使・秋篠朝臣安人が下向の際に社殿を建立。越後国の北の守護神として京都・貴船神社の御祭神三柱を合祀以来千二百年、「明神様」と称されて広く信仰を集めました。延喜式神名帳には越後磐船郡の筆頭に記載され、色部氏・本庄氏・歴代村上藩主等に鎮守の御社として篤い保護を受けます。明治期には越後一宮 彌彦神社に次ぐ県内最初の縣社に列しました。 【社叢】 石船神社の社叢は、天然ヤブツバキの群生地で県天然記念物(昭和33年指定)です。 【石碑・句碑】 境内には、磐船柵趾の碑と松尾芭蕉の句碑2基があります。 【石船神社と岩船大祭】 石船神社の例祭(10/18、19)が岩船大祭です。先太鼓と木遣りを先頭に、御舟屋台をはじめとした9基のしゃぎり屋台が共に御神幸します。岩船大祭と「ともやま行事」は県無形民俗文化財(昭和62年)に指定されています。

浄念寺

文化15(1818)年に建てられた本堂は、この地方では珍しい白壁土蔵造で、日本で一番大きなこともあり、平成3(1991)年に国の重要文化財に指定されています。 建築については、防火を考えて大壁の土蔵造りとし、屋根はこけら葺きにしました。丈六の阿弥陀如来像を安置するため、棟木の高さが35尺にもなり、それにふさわしく梁間9間・桁間11間、2階部分もそれぞれ6間・9間という大きさになりました。 本尊は丈六(5m)の阿弥陀如来の座像(木像)で、この地方には類のない大きさで見事なものです。なお、本堂は間部詮房の百回忌に合わせて江戸で設計され、村上の大工の手で建築されたものです。 また、芭蕉と曽良が参詣したことでも知られています。

村上市指定文化財 旧成田家住宅

村上で現存している武家住宅の中では、唯一玄関が妻側に位置する形態で、建築年代は幕末から明治にかけてと推定され、平成8(1996)年に復原後、一般公開されています。 【旧成田家住宅と『諸国廻遊日録』】 旧成田家住宅は、現在の村上市新町にある。ここは、江戸時代の内藤氏治政世下においては旧武家町に属し、村上城本丸に通じる下渡門[げどもん]の近くで、比較的中級武士の住宅が集中していたところである。 『諸国廻遊日録』とは、九州佐賀藩士・牟田高惇という侍が、武者修行で諸国を巡り歩いたときの日記のようなもので、その日記によると、嘉永7(1854)年7月頃に村上にも立ち寄り、七夕祭りなどのことが記載されている。このとき、牟田高惇が宿としたところが、当時は空き家であった「元岡本左太夫」の屋敷であったことが日記にあり、明治初年の城下絵図にも、旧成田家住宅の位置には岡本左太夫という名前があり、これが現在の位置に比定される。 しかし、明治の村上藩士の分限帳(名簿)には、この岡本左太夫という名前は見当たらないことと、牟田高惇が訪れた頃、すでに空き家であったことから、どのような武士が住んでいた住宅であったかは現在のところ不明である。 (村上市郷土資料館) 【旧成田家住宅と復原調査】 この住宅の構造形式は、直屋[すごや]・寄棟造・茅葺であり、典型的な村上の武家住宅の形式であるといえるが、玄関の位置については、現存しているほとんどの武家住宅が平入りの玄関であるのに対して、妻入りの玄関であることが大きな特徴であるといえる。 また、建物の改造痕跡や技法などの調査からも、これまでに若林家や嵩岡家、岩間家などとは異なる面がかなりあり、特に技法的には一段と進んだ方法が見られる。さらに、先の『諸国廻遊日録』には、元岡本左太夫の住宅間取りも記載されているが、この記述と復原調査からの間取りとも合致しない点がかなりある。 このようなことから、『諸国廻遊日録』にある屋敷を前身建物として、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、従来の武家住宅の建築方法や技法を踏襲しながら、新たに建て替えられた再生武家住宅であるという考え方もできる。いずれにしろ、この住宅が江戸時代から明治時代へと移り変わるときに建築されたことを考えるならば、村上の住宅の歴史や変遷を理解する上で貴重な歴史的建造物であることには間違いはない。 (村上市郷土資料館)

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