江戸時代の村上藩は、藩主が目まぐるしく代わり、9家・21人の藩主が当地を治めました。
正保元(1644)年~慶安2(1649)年の5年間を治めた本多忠義[ただよし]が陸奥白河城に移封となり、代わって村上城へ入ったのは、前年に7歳という若さで家を継いだ松平藤松(のちの直矩)でした。
「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」は、2023年11月3日~12月3日まで、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)で開催された同名の展示を、おしゃぎり会館監修のもと、当サイト用に編集したものです。
おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
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松平直矩【松平大和守直矩】
まつだいら なおのり
松平直矩の父・直基[なおもと]は、慶安元(1648)年に出羽山形から播磨姫路15万石の城主となったが、姫路城には入ることなく江戸の邸[やしき]で没し、嗣子の藤松(のちの直矩)が7歳で家を継いだ。
藤松は寛永19(1642)年に越前大野城で生まれた。祖父は徳川家康の第2子・結城秀康[ゆうきひでやす]で、父・直基は秀康の5男。
幕府にとって、姫路城は外様大名や大藩が多い九州や中国筋の押さえの要衝であることから、幼少の藤松を置くわけにはいかないとして、慶安2(1649)年に本領15万石のまま村上城へ移した。
本多忠義時代まで10万石だった村上藩に、この時から三条方面の十ケ組の村々が村上領として加わった。
孝顕寺(前橋市)所蔵の松平大和守直矩肖像画
画像提供:おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
藤松は、承応3(1654)年に従四位下に叙せられ、大和守に任官、翌年に名を直矩と改める。
若い直矩は在城中、頻繁に近郷の山や川へ出掛けて狩りをしており、寛文7(1667)年に江戸から出府するようにとの上意書が届けられた時も高根川への川狩り中で、それを小川村で受け取っている。
のちに姫路城への所替えを命ぜられることになる江戸への旅は、通常11日かかる行程を4日も短縮するという早さで、姫路城への所替えを望んでいた直矩の心境が伺われる。
直矩の村上在城は19年余、この間に領内全村の検地や城下村上町の拡張整備を行っている。また、幕府の許しを得て、臥牛山城の天守三層櫓を新しく造り替え、寛文3(1663)に竣工*、自ら検分をしている。
*この天守櫓は寛文7(1667)年に落雷によって焼失、その後再建されることはなかった
鈴木鉀三(編)『松平大和守日記』上巻(村上古文書刊行会/平成元年)
画像提供:おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
寛文3(1663)年の日記「松風音 上」(北方文化博物館所蔵)
画像提供:おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
直矩は、村上に初入部した万治2(1659)年頃から日記をつづっていた。当時の大名の生活や村上の様子が詳しく分かる貴重なものである。原本は第2次世界大戦の東京大空襲により焼失したが、部分的に村上藩主時代の日記の写本が北方文化博物館(新潟市)に残されていた。それらを撮影・解読するなど、村上市内の郷土史研究家の方々の尽力で『松平直矩日記』全3巻が刊行されている
直矩は、和歌・謡曲・聞香*[もんこう]をたしなみ、浄瑠璃を愛好し、また絵も描くという多才な人で、当時の生活の様子を自筆の日記に詳しく記している。
*香をたいて、香りを鑑賞すること
直矩は姫路移封後も、天和2(1682)年に豊後日田城、貞享3(1686)年に出羽山形城、元禄5(1692)年に陸奥白河城と生涯で8カ所も引っ越しをしたことから「引っ越し大名」とも呼ばれ、小説や映画のモデルともなっている。
元禄8(1695)年、54歳で江戸の邸で没。