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城下町・村上 城下町・村上

 

新潟県の最北に位置する
村上市は城跡武家屋敷町屋寺町
城下町の四大要素が残る希少なまちです。

 

この魅力ある城下町・村上を
ちょっとひも解いてみましょう。

2024/11/01

⑩本多忠隆「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」

 

江戸時代の村上藩は、藩主が目まぐるしく代わり、9家・21人の藩主が当地を治めました。

徳川四天王の一人、本多忠勝[ただかつ]の流れをくむ本多家が、宝永元(1704)年~同7(1710)年の6年間を治めますが、姫路から転封になった本多忠孝[ただたか]は、新領地・村上へ足を踏み入れることなく12歳で病没。嗣子がなかった本多家は断絶の危機を迎えますが、家祖の功績により、分家の本多忠隆が継ぐことを許されます。

 

「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」は、2023年11月3日~12月3日まで、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)で開催された同名の展示を、おしゃぎり会館監修のもと、当サイト用に編集したものです。

おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
https://www.sake3.com/spot/179

 


 

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本多忠隆【本多中務大輔忠隆】
ほんだ ただたか

先代の本多忠孝が12歳という若さでなくなり、嗣子もなかったことから、本来であれば本多家は断絶となるところであったが、家祖・本多忠勝の勲功のおかげもあり、分家の忠隆が家を継ぐことが認められた。

しかし、領地はこれまでの15万石から5万石へと大きく減ぜられる。これにより本多家では家臣を召し抱えておくことができず、多くの家臣に暇[いとま]を出すことになり、村上城下には浪人があふれることになった。

 

忠隆は、宝永6(1709)年末に従五位下の中務大輔[なかつかさのたいふ]に叙任され、名を忠良[ただなが]と改め、翌年に三河国刈谷に移される。正徳2(1712)には下総国古河に転じ、将軍・徳川家宣[いえのぶ]・家継[いえつぐ]の側近として仕えた。

また、享保19(1734)年から12年間にわたって老中職にあり、宝暦元(1751)年に62歳で亡くなっている。忠良後の本多家は、石見国浜田、三河国岡崎と移り幕末に至る。

 

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