江戸時代の村上藩は、藩主が目まぐるしく代わり、9家・21人の藩主が当地を治めました。
宝永7(1710)年~享保2(1717)年の7年間を治めた松平輝貞[てるさだ]が上野国高崎へ移り、代わって高崎城から村上へ移されたのが間部詮房です。間部家は享保2(1717)年~同5(1720)年の3年間を治めました。
「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」は、2023年11月3日~12月3日まで、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)で開催された同名の展示を、おしゃぎり会館監修のもと、当サイト用に編集したものです。
おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
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間部詮房【間部越前守詮房】
まなべ あきふさ
間部詮房は、寛文6(1666)年に甲斐国甲府藩主・徳川綱重[つなしげ]の家臣、西田清貞の子として生まれた。はじめは能楽師の弟子であった。6代将軍・家宣[いえのぶ]が、甲府城主で綱豊[つなとよ]と称していた頃に小姓として召し出され、姓を間部と改め、やがて側用人となった。
宝永元(1704)年に綱豊が5代将軍・綱吉[つなよし]の世嗣となった時、これに従って江戸城西之丸に入り、従五位下の越前守に任ぜられた。家宣が将軍職を継ぐと、老中格側用人となり、宝永7(1710)年には5万石で上野国高崎城主となった。この時、侍講[じこう]*となったのが新井白石[あらいはくせき]である。
*城主やその嗣[よつぎ]の御前で講義を行う人
詮房は、家宣の側用人として大きな権限を握り、白石とともに「正徳の治」*を断行。正徳期の幕政を主導した。
*新井白石が家宣・家継の下で推し進めた文治政治
正徳2(1712)年に家宣が死去すると、詮房は幼い将軍・家継を守って自邸に帰ることなく江戸城に起居し、幕政を掌握。しかし、家継が享保元(1716)年に7歳で没すると、紀州家の徳川吉宗[よしむね]が将軍になり、それと同時に幕府中枢から退けられることになった。能楽師の弟子から大抜擢により将軍の側近になった詮房に対し、親藩をはじめ多くの妬みがあったことは当然であった。
詮房は、享保2(1717)年に高崎から村上へ移され、同5(1720)年に村上の地にて55歳で死去。浄念寺に葬られた。
浄念寺
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詮房に子はなく、弟の詮言[あきとき]を養子としたが、家督相続後は越前国鯖江に移され、以降、間部家は幕末まで鯖江にあった。間部氏との縁から、鯖江市と村上市は昭和56(1981)年に姉妹都市となっている。