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城下町・村上 城下町・村上

 

新潟県の最北に位置する
村上市は城跡武家屋敷町屋寺町
城下町の四大要素が残る希少なまちです。

 

この魅力ある城下町・村上を
ちょっとひも解いてみましょう。

2024/02/10

①村上頼勝「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」

 

前項にも書いたように、江戸時代の村上藩は藩主が目まぐるしく代わり、9家・21人の藩主が当地を治めました。

今回から、21人の村上藩主を古い順に一人ずつ取り上げ、その人生や功績などを紹介していきます。まずは、慶長3(1598)年~元和4(1618)年の20年間を治めた村上家から、村上頼勝[むらかみよりかつ]です。

 

「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」は、2023年11月3日~12月3日まで、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)で開催された同名の展示を、おしゃぎり会館監修のもと、当サイト用に編集したものです。

おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
https://www.sake3.com/spot/179

 


 

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村上頼勝【村上周防守頼勝】
むらかみ よりかつ

慶長3(1598)年、越後春日山城にあって越後・佐渡・庄内を支配していた上杉景勝が会津へ120万石で移封。代わって、越前北ノ庄の堀秀治が越後一国45万石で春日山城へ、加賀大聖寺の溝口伯耆守が6万石で新発田[しばた]に、加賀小松の村上周防守が9万石で本庄(村上)に移ってきた。

 

村上氏の出自は不明な点が多く、江戸時代の『東武実録』[とうぶじつろく]などの史書には、初代藩主が「村上周防守義明」と記されている。しかしながら「義明」と記された文書は一通も残っていなく、頼勝・忠勝の名の文書のみが現存することから、年代的にみて、初代が頼勝、後を継いだのが忠勝と考えられている。

 

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大徳寺大慈院(京都市)所蔵の村上頼勝肖像画
画像提供:おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)

頼勝の前歴は不明な点が多いものの、天正10(1582)年からは丹羽長秀の家臣として活躍し、賤ケ岳[しずがたけ]の戦い以降、長秀から6万6千石で加賀小松城を預けられている。丹羽長秀没後は、豊臣秀吉により堀秀政の与力を命じられ、九州の島津攻めや小田原の北条攻めに従軍したのち、慶長3(1598)年に9万石で村上城主を任じられた。

 

頼勝は、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いのときには国にとどまり、上杉遺民一揆の鎮圧に努め、同8(1603)年には現在国宝に指定されている京都・大徳寺の塔頭[たっちゅう]大慈院[だいじいん]の唐門を寄進している。平成11(1999)~14(2002)年に行われた唐門の復元修理の際、棟札により頼勝が寄進したことが判明した。

 

没年は、大慈院の過去帳により慶長9(1604)年5月28日と判明している。

 

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