江戸時代の村上藩は、藩主が目まぐるしく代わり、9家・21人の藩主が当地を治めました。
「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」では、21人の村上藩主を古い順に一人ずつ取り上げ、その人生や功績などを紹介していきます。今回は、慶長3(1598)年~元和4(1618)年の20年間を治めた村上家から、村上忠勝です。
「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」は、2023年11月3日~12月3日まで、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)で開催された同名の展示を、おしゃぎり会館監修のもと、当サイト用に編集したものです。
おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
https://www.sake3.com/spot/179
村上忠勝【村上周防守忠勝】
むらかみ ただかつ
先代の村上頼勝は子がなく、堀秀治の弟・義忠を養子に迎えたが、その義忠は20歳の頃に没した。その後に頼勝の養子とされたのが忠勝である。
近年、京都の大徳寺大慈院の過去帳より頼勝の没年が慶長9(1604)年であることが判明したことから、それ以降は忠勝が村上城主となったと考えられる。このとき、忠勝は6歳である。
元和2(1616)年、大坂夏の陣の頃、忠勝の家臣が大坂の知人に贈り物をしたことで豊臣方との内通を疑われ、それをきっかけに家中は分裂。争いは幕府にも知られるところとなり、村上家は断絶を余儀なくされた。忠勝は元和4(1618)年に丹波篠山に配流となり、同9(1623)年9月26日に25歳で死去した。
乙宝寺 三重塔(国指定重要文化財)
画像提供:乙宝寺
国指定重要文化財になっている乙宝寺[おっぽうじ](胎内市)の三重塔は、慶長19(1614)年に忠勝が寄進*したものである。
*竣工は元和6(1620)年