江戸時代の村上藩は、藩主が目まぐるしく代わり、9家・21人の藩主が当地を治めました。
村上家に続き、堀家も断絶となり、寛永19(1642)年~正保元(1644)年の2年間は幕府領になった村上藩。その後、村上へ入った本多忠義が正保元(1644)年~慶安2(1649)年の5年間を治めました。
「江戸時代の村上 ~村上藩歴代藩主物語~」は、2023年11月3日~12月3日まで、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)で開催された同名の展示を、おしゃぎり会館監修のもと、当サイト用に編集したものです。
おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)
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本多忠義【本多能登守忠義】
ほんだ ただよし
本多忠義は、井伊直政[いいなおまさ]・榊原康政[さかきばらやすまさ]・酒井忠次[さかいただつぐ]と並び称された徳川四天王*の一人、本多忠勝[ほんだただかつ]の孫として、慶長7(1602)年に伊勢桑名城で生まれた。
父・忠政[ただまさ]は播磨姫路城(10万石)城主。忠義も最初は知行4万石で姫路城内に住んでいた。その後、寛永16(1639)年に7万石で遠江掛川城を拝領。さらに正保元(1644)年に3万石を加増され、10万石で村上城へ移封となる。
村上城にあること5年余り、在城期間が短かったため資料らしいものはないが、前藩主の堀氏が与えた寺領をことごとく没収したという記録が残されている。
慶安2(1649)年に陸奥白河城(12万石)に転じ、延宝4(1676)年に白河城にて75歳で没。その後の本多家は、宇都宮・大和郡山と転じ、享保8(1723)年に忠義の5代後・忠烈[ただつら]の代で継ぐ者がなく絶家となった。