天正年間(1573~92)に宥弁(ゆうべん)和尚の中興にかかる。羽前国(山形県)置賜郡塩野村の延徳寺(えんとくじ)の末寺であったが、天保年間(1830~44)に離末となり、明治13(1880)年に京都の智積院(ちしゃくいん)の末寺となった。
松沢の長松寺は最明寺の末寺であったことが大永5(1525)年に見える。天正4(1576)年1月8日には巻き昆布・わらび・ひじき・大豆を肴に冷酒で蘇民将来(そみんしょうらい/厄除け・子孫繁栄)の行事をおこなっていることが、平林城主 色部氏の記録に見える。その当時は同氏の祈祷寺(きとうでら)であった。
●真言宗 智山派
瀬崎山 法持院 最明寺
所在地 村上市岩船下大町1-20