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昔のことせ! ~村上むかし語り~ 昔のことせ! ~村上むかし語り~

当コンテンツは村上商工会議所が毎月発行する
「むらかみ商工会議所ニュース」で連載中の
『村上市史異聞』を転載したものです。

 

 

著者である大場喜代司さんが
村上の昔のことを、あれやこれやと語ります。

 
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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2008~2015年に書かれたものはこちら。

2018/10/01

117 村上山(現・臥牛山)の麓に広まる城下町

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天下を統一した豊臣秀吉は、全国に刀狩令を発して百姓が所持していた刀槍・鉄砲などを没収し、百姓は農耕に専念せよと命じた。また、海賊禁止令を発し、大名に所属する水軍と一般漁民に分けた。

 

職人や商人も専業化され、百姓が商人や職人になることも禁じた。刀狩令の実施は天正18(1590)年、職業の専業化は翌19年で、本庄繁長の庄内攻めの直後である。検地の実施は、耕地や居住地の面積を正確にして租税高を明らかにし、兵と農を分離し、身分制を確立することであった。「兵農分離令」という。

 

それまでの慣れ合い社会を制度化して、画一的な封建体制にするための改革の踏み出しで、中世社会から近世社会への脱皮が始まったのである。されば封建とは何か。

 

封は「境ヲ設ク」ること、建は「タツ」ことであるから、国境を定めて国を建てることである。例えば、越後国を建て、何分割かにして領地を定める。(この時代には「藩」という名称は公式にはない。明治政府が「廃藩置県」という語を使ったことから「藩」が公式に使われるようになった)

 

とまれ、『越後国絵図』に描かれる「村上ようがい」と村上町は、検地の結果と武士の城下集住がなされた後にその数値に基づいて作成されたものである。村上山(城山)へ登る径(みち)は二筋、山頂付近の各曲輪は木柵に囲繞(いにょう)され、門櫓の屋根は板か茅葺きのようである。どう見ても瓦葺きには見えない。

 

山麓近くには5棟の建物が他の家屋を抜きんでた規模で建つ。政庁か城主や重臣の居館であろう。その右手の柵の中には、数棟が樹木の中に建つ。侍屋敷であろう。左右に走る2本の街路は現・二の町通りと三之町通りであろう。

 

その街路の右端、木柵に囲繞された建物は重要な軍事施設で現・藤基神社地に該当しよう。それに対する左手の斜下方につく道は、段丘上から段下へと降りる道であろう。段丘の崖上には、のちに下渡門が建つ。その道は北へ延び、三面川を渡って寺尾へ続き、出羽道と結ぶ重要路となる。

 

「村上町二百五拾間(軒)」と記された数は町人のみの家数である。右手の家並みに接続するしり(尻)引村は、現在の羽黒口に該当しよう。「家合弐拾九間(軒)」とある。飯野村は「家七間(軒)」と記すが、大町・小町通りや安良町から西へ延長する街路は描かれない。

 

瀬波町は「七拾八間」と記入されている。村上町との間は茫々(ぼうぼう)たる草藪が広がり、東の虚空には猛禽羽搏(もうきんはばたく)鷲巣(わしがす)の峯がそびえ、北には悠久の流れがよどみなく月に明るいのみ。

 

次回(2018年11月1日更新予定)からは、村上の地名について紹介していきます。

 

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2017年10月号掲載)村上市史異聞 より

 

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