遠景の中央には城山・臥牛山(がぎゅうさん)が。近景の右手には鮭漁の木柵か、弧を描いて並ぶ。左方の北岸の滝ノ前付近には繋留(けいりゅう)する帆掛船が見える。撮影場所は多岐(伎)神社あたりで、明治後期の鮭漁の繁栄した頃の写真であろう。
臥牛山などと気取った鹿爪(しかつめ)らしい山名は後世に付けられたもので、もともとは村上山と言った。
村上という地名の最初は、永正6(1509)年の耕雲寺納所帳(なつしょちょう)である。また、村上山という地名は、永禄12(1569)年の宮孫三郎秋長という武将の手紙に見える。『御屋形様(上杉謙信)亥年以来村上山に向かい御馬を立られ』である。村上山とは臥牛山にほかならないが、その語源は読んで字のごとく、村の上手(かみて)にある山であるから村上山。
侵略から守る城と、広闊明朗(こうかつめいろう)な城下町の北を阻む河が蕩蕩(とうとう)として流れ、まさに城下の大手(正面)たることが瞭然(りょうぜん)と物語っている。もとは国道7号方面が城の大手であったと主張するむきもあるが、その方面は国道ができるまでは湿地帯で狭隘(きょうあい)な土地であった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2020年2月号掲載)村上市史異聞 より