今川を後にして北へ向かうと、ほどなく脇川に至る。現在は集落を避ける脇川大橋が架かり、往昔の様相はどこへやら。
かつては上海府から下海府の海岸では、製塩が盛んに行われていたが、明治期に入ると海運業が活発化し、瀬戸内からの塩が移入されると、海府の製塩は途絶えてしまう。集落のあちこちに散見される「塩釜神社」は、塩焼き業が行われていた名残である。
当地方の製塩の様子は、岩ヶ崎の海岸にも描かれているが、現在行われている能登などのような、砂浜に海水を撒いて塩分を濃くしてからニガリを除く揚げ浜式ではない。
図のように、数段の棚に竹笹を敷き、最上部から海水を注ぎかける。海水は、渚(なぎさ)に建てられた高櫓の上から汲み上げられ、棚の最上部に撒かれ、各棚を通過して最下部に至ったときは、塩水から不純物が取り除かれ、濃厚な塩水となる。この製法で作った塩は村上城下に運ばれて販売された。
村上城下での塩は、地浜塩は塩町、瀬波港に揚がる塩は「旅塩」といわれて羽黒町の専売であった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2022年8月号掲載)村上市史異聞 より