既述したように、本庄方の実戦兵数は約2千である。これに兵粮運搬などの軍夫は含まれず、庄内の味方勢力も数の外である。それらの員数を加えれば6~7千人にはのぼる。この数は当初より計算ずくであったとみてもよい。
東禅寺筑前守の兵力のうち、山形からの支援は壊滅状態になったから敗残兵のみである。その自軍の兵力のみで、一は東禅寺城の守備、一は大浦城の守備、一は十五里原に主力を結集させる必要があった。不十分な迎撃態勢で対戦を強いられることを余儀なくされたのである。
これに対し、攻撃方は東禅寺城には川北衆を、大浦城には武藤氏の旧臣らをあて、決戦場の十五里原には本庄の本隊をあてたと推察される。こうすれば城攻めは容易となろうし、決戦に戦力を集中できる。
そして払暁に忍び、不意に襲う奇襲戦法を用いて、敵を恐怖の底に叩きこむ。「夜に入りて、鉄砲をも用いず、道の両方に槍を伏せて夜の明くるを待ちて討ちたぞ」『秋田文書』
敵の本陣近くまで徒歩で忍び、黎明になるや突如として天を震駭する銃声をあびせる。肝を抜かれた東禅寺兵は右往左往する。すかさず本庄の切り込み隊が殺到、たちまち壊乱した敵兵は算を乱して敗走、十五里原の秋草も鮮血におののく。
東禅寺右馬頭(筑前守の弟)は切歯扼腕、「小栗毛という馬に乗って刀を抜き、馬の頭さきに左右にひらめかして本庄が陣をずんと飛び入るところを伏槍あまさず突き落とす」と具体的に『秋田文書』は伝えるが、槍先の功名で手柄をあげたのは繁長の娘婿・黒川備前守であった。
時を前後して大浦城も落ちた。東禅寺城も黒煙をあげた。東禅寺兵は六十里越から山形へ敗走するが、途中羽黒山麓の黒瀬川で、反撃にでるものの、鎧袖一触、「討たるるもの八百余人、疵をかうむる者数をしらず」とは、『小国夢幻悪屋形聞書』の大形な表現である。
その書は戦乱後200年ほどに書かれたものであるから、当てになるものではない。
が、東禅寺筑前守は討死にし、一方的に本庄方が勝利したことは間違いない。ここで庄内三郡は本庄の手中となり、繁長は東禅寺城を接収して入城し、武藤義勝(千勝丸)は大浦城主となって入城した。
庄内征略を果たした本庄繁長は、めでたく村上へ凱旋したとは、これまたのちの理屈に合わない小説だ。占領地には必ず旧主側からの反乱が起きるし、勝者に対する不平不満が爆発しよう。これらの対策は新支配者があたらねばならぬ。のほほんと村上へ凱旋などできますか。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2017年6月号掲載)村上市史異聞 より