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昔のことせ! ~村上むかし語り~ 昔のことせ! ~村上むかし語り~

当コンテンツは村上商工会議所が毎月発行する
「むらかみ商工会議所ニュース」で連載中の
『村上市史異聞』を転載したものです。

 

 

著者である大場喜代司さんが
村上の昔のことを、あれやこれやと語ります。

 
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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2008~2015年に書かれたものはこちら。

2017/02/15

096 村上城籠城戦(2)

上杉勢の本陣には色部(顕長)・中条(景泰)・杉原・下条(実頼)・安田(長秀)の各将で総勢二千ほどで守備していた。これまでの足軽戦と違って、本格的な戦である。それだけに犠牲者も多く、上杉方は三百余も討死、本庄方は加勢衆の大川の家来(府屋藤懸城の大川氏は長秀が上杉方、弟孫太郎が本庄に味方)に二十四人の打死があった。

 

その翌日は上杉方が中原・猿沢・小川あたりに兵力を展開し、輝虎の旗本は猿沢城下付近に移動したが攻守とも動きはない。上杉方はかねて奪われた大葉沢城の奪還に将軍峯を奪い要塞にしたが兵糧などに不足が生じたためか、女川から大栗田を経て笹平に至る径路を、輸送隊を送る。

 

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それを本庄兵が襲いおよそ二百荷を谷底へ落とす。上杉方はこれに懲りず、またもや輸送隊を送りこむと、これまた襲われ荷物は谷底へ投げこまれる。緒戦から戦局は華華しくなく、わけて上杉方の戦果はあがらない。景気風は本庄方に向かって吹いている。それゆえか、村上城に小国彦次郎(東田川郡小国町)の手勢が、大川衆と合わせて五千の兵力で加勢に到着した。この勢力が主となり岩船の上杉本陣を襲撃すること五度六度におよぶ。

 

十月二十六日には物見山(瀬波松山)の争奪戦があった。前半は本庄方の敗軍、後半は上杉の敗けであったが、総体的には本庄方の勝利であった。こうした戦局を打開するべく上杉輝虎はみずから春日山城を出馬して十一月六日には岩船の本陣に到着した。

 

そして翌々八日には陣頭指揮をとるため村上山へ出張し、九日から総攻めのため、外郭の防禦施設を閉じ山城を孤立させ、いよいよ総攻撃にかかるが、負傷者が続出して撤退を余儀なくされる。「味方(本庄)にも四、五人手負い、敵の手負いは際限なく候、後の批判には手負死人千余り」『同軍認書』。

 

城攻めは見事に失敗し、以後輝虎は態勢の立て直しを迫られ、未曽有の陣立で望むことになる。城山の東麓には上条(じょうじょう)・北条(きたじょう)・上田・斎藤(以上中郡衆)黒川・下田・大茂(下郡衆)

 

南麓には枇杷島・色部・新津・平賀・安田・杉原・下条(げじょう)・五十公野(上下郡混成)

 

西麓には輝虎の旗本衆・新発田・中条・柿崎(中下郡混成)

 

このように城山の北麓を除いたほとんどを中下郡の部将と輝虎麾下の旗本でとり囲んだ。上郡の将兵が参戦しないわけは、春日山城の留守や、能登、北陸道への出兵と警衛があり、また信州衆の村上や須田らは武田に対する警衛があった。

 

上杉方の総兵力は記されていないが、一部将あたり五・六十名とすると、計一万名ほどになろうか、この兵を幾組かに分けて東の堀を埋めたり柵木を抜きとったりして、防御網を壊したのが十一月二十日ころである。

 

その一方では大葉沢城の奪還のため、鮎川衆が布部あたりから舟で乗り下げるところを本庄兵が察知して襲い、百余の鮎川兵を討った。また藤懸城の増援に向かった上杉兵が洪水の三面川で溺死することもあり、上杉方の形勢はよくない。

 

 

大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2015年12月号掲載)村上市史異聞 より

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