現在、いずれの歴史書や地誌をみても、出羽街道とか三国街道、あるいは米沢街道と書き記されているが、実際その街道とやらを辿(たど)ると、旧道に残る道標(みちしるべ)には、米沢領に立つ石標には「越後道」と刻まれている。
また、鶴岡・大宝寺と村上間の鶴岡領には「越後道」とあり、村上市四日市の三叉路にある石標には「出羽道」と刻まれていて、いずれも街道という名称はなく、行く道の相手側の国名を明記している。(実名は○○道である)
図の野潟―間嶋(現 間島)間の道は浜通りの出羽道で、現在、その面影は集落の中を走る道にみられる。両集落の間を流れる小川は「境川」という。野潟の寺は、曹洞宗 潜龍寺である。
境川という名称は、野潟と間嶋の境界をなすがゆえであろう。そのいかにもたどたどしい橋と小径を旅人らしい人影が動き、間嶋を過ぎると海岸に落ち込む蒲萄(ぶどう)山塊の裾につけられた径を北に向かう。その西は直(す)ぐ日本海の荒波が波涛(はとう)を白く泡立たせ、潮風は旅人の頬をなぶり、草鞋(わらじ)は藻をかむ。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2021年10月号掲載)村上市史異聞 より