歳が明けて永禄十二年とはなったが戦局は膠着したままで、散発的に鉄砲が鳴る程度だ。そうした膠着状態を打開し、城攻めを敢行するため輝虎は、各武将に人質の提出を命じたところ、新発田長敦は拒否した。それを輝虎は切切と説得する。長敦宛の輝虎書状は、
各武将共に疲労ゆえか、城攻めには一向に真剣でなく、輝虎ばかりに任せて命令も聞かない。この上、隣国で変事が勃発したならば輝虎の滅亡である。存知のとおり荒川・揚河川・信濃川は(進退に)歩いて渡ることはできない。
他の武将は人質を出して忠節を誓ったのにあなたはまだである。
新発田長敦は、いかにこの城攻めに消極的であったか知れよう。否、新発田のみならずこの戦は大方の国人衆が不承不承で従軍したものであろう。それは本庄方の結束の固さと地の利を得た城にある。また輝虎の総帥としての資質に欠けるところにも一因があったか。
抑此の要害は一方は山岳続き、本城の際を堀切し隍塹となす、南方は深田水洋洋として湖水の如く、西は滄溟涯(そうめいがい)し(青海原がかぎりない)、特に大河郭(かく)を繞(めぐ)り、地利無雙(ちのりむそう)の地たり、本庄累代此の地を領し、永年武門の家を継ぐ、此の度逆心に付、一定籠城と覚悟し、修築等に心慮を忰き、旧功の地下人(百姓)も残らず本庄に与党す、此の上は只、兵糧・弾薬の多寡にかかれり、縦ひ管領(上杉)を以て攻めたまうとも、勝利如何があらん『上杉年譜』。
城は地の利を得て他に類がない。加えて修築して防禦を厳重にしている。百姓らも味方している。たとへ上杉が兵を引き具して攻めようとも、勝利は覚束ない。と言い、ここを引き払って帰城したならば、本庄は必ず突いてで、敵を薙ぎ払い猛威を振るうだろう。
城は無類に堅固、そのうえ民衆も加担しているとあっては攻城方の分は薄いと諸将は主張する。それでも輝虎は強気で、外曲輪を破り実城のみにして裸城にするべく攻めさせた。
百姓まで味方したとは、日常の撫民政策がゆきとどいていたものと思ってよい。そは本庄繁長の人となりは
「天性質直(生まれつき質朴)平日人と交接するも最も言語を忍べり(静・小声)、唯、兵術を事とし、武略軍論学ばずして自然に妙を得たり。
川中嶋の戦では十九歳で輝虎に従軍し、他に異なる軍功をたてた。
籠城逆心のことは徳川家康にも達したれば静謐の趣も祝を述べてきた。
上杉輝虎の性格は、
「短慮して人を懐(なつ)くる道なく、我が身の勇を外に現し、仁を内におこなふ心なし。制(政)道手あらくあてふて(宛行)恨みをうくること少からず」、いく程なく諸将みな踈みはなれ『鎌倉管領九代記』
本庄とはいささか違う性格のようで、短気で自己主張が強く、他人に親しみがない、政道は粗雑だから恨みをうけることがある。また軍陣でも(将兵)を生きたる虫のように扱う、とも言う。『同記』は北条氏側に立って書かれたようであるから、片寄った見方をしているかもしれない。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年1月号掲載)村上市史異聞 より