いまだ庄内平野は煙霧の中で狂風の外にあった。しかし、すでに地崩れとなり、荒天のきざしは見えていた。苦境の雲霧を払いのけるべく、武藤は本庄・上杉を頼る一方で、伊達にも危急を告げると、伊達は上杉景勝の出馬を要請する。上杉の意を受けて出馬を決するのは本庄繁長である。掲げる名目は、親族武藤の擁護であり、庄内の秩序を正すことである。
最上の勢力拡大を嫌った伊達は、武藤を庇護しようとする。ここに利害関係が生じた本庄と伊達は同盟関係となる。横手の小野寺が最上に寄ると、優位を争う隣境の秋田愛季(ちかすえ)は、本庄の娘を乞いうけ同盟を結ぶ。
伊達の本拠・米沢から、最上の本拠・山形へ延びる山間道の中ほどに、領境の中山峠がある。伊達政宗は突如として采を下した。目指すは中山峠である。急を聞いた最上も応戦態勢をとる。あわや伯父と甥の相克が雨露の緑陰に血の虹をかけるか、血相を変えたのが政宗の母で義光(よしあき)の妹の東(ひがし)の方だ。輿で乗りつけ両陣の間にどっかと据え、てこでも動かぬ構えで80日もそのまま過ごした。
この事件を諸史は、叔父・甥の相克ゆえと決めているがそう単純な軍事行動ではあるまい。争いの裏には必ずや利害がからんでいる。とまれ本庄の戦略のかぎは伊達にあり、秋田や庄内の川北にも伏線が敷かれていた。
本庄が戦時態勢に入ったのは、その年の正月からで、出羽道上にある山城の攻略である。しかし、最上はその攻撃をほとんど無視した。なぜか? 最上の重視した紛争は白河口の伊達勢の動向であったか。6月23日に挙がった戦果では、伊達の軽卒50余を討ち、7月4日の戦闘では騎馬武士80、軽卒千人を討ったと義光に届けられる。
かたや羽越境いの闘争を、最上は言い訳がましくも「山中であり、敵城一、二カ所でもあるので、当方から派兵もせず、さしたる儀もない」と伝えていた。本庄に対する大いなる油断であり、侮りであった。そう判断させた本庄の戦術が巧みであったか。
この時点での出羽道上のほとんどは、本庄の手に帰したといってよかろう。そこに本軍を進攻させ、別働隊を勝木から沿海に大浦城の搦手に進めさせた。これがまた最上には過少に報告されることになった。いったい出羽道は大部隊を通すような大道ではない。わけて沿海道ときては浪波に足をさらわれたり、岩峰を攀じるなどの危険箇所さえある。
村上から本庄が大軍を催して、庄内へ侵攻することなど最上の考えの外であったかもしれない。山間の出羽道は鬼坂峠を越えて、関根を通れば庄内の沃野は眼前である。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2017年4月号掲載)村上市史異聞 より