※2ページにわたる絵図です
砂浜につけられた踏み跡は、波浪によってさらわれて消えるが、岩塊の潮濡れした小径は危ないながらも明瞭に残る。その砂の径から、絶壁の径ともいえぬ径を攀(よ)じり登った旅人は、しばし景勝の美しさに瞳を奪われた。
しかし、その絶勝(ぜっしょう)の景は奇絶ともいえようが、冬期間などは人命に危険が迫る。それゆえ隣村との通行も途絶するのだ。その巨大な巌塊(がんかい)をくりぬき、通行の便をはかろうと計画を立てた人物が現れた。早川村早川寺(そうせんじ)の洞水(どうすい)和尚と新保村仏照寺(ぶつしょうじ)の大哲(だいてつ)和尚であった。
その計画が実現すると、通行の便はいかばかりか、旅人のみか、隣村との連絡も格段と便利になろう。洞水と大哲の両名は、水原代官所の許可を得ると、郡内から寄付金を募った。
工事は嘉永3(1850)年に起こして翌年には完成した。隧道(ずいどう)は、高さ2.5メートル・幅2メートル・長さ70メートル、経費は300両であった。ムヂナの穴のような洞門であったが、通行人の喜びは無上なものであった。以後、この岩塊を「トンネル岩」と呼ぶようになった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2022年3月号掲載)村上市史異聞 より