村上藩 中越方面へ出兵
越後高田藩15万石の城下は、およそ二万余の政府軍で充満、その主兵力は長岡城攻撃に向かう。その前、村上城にも中越方面の戦局が頻々[ひんぴん]と伝えられ、藩士全員に総登城令が発せられたのは明治元(1868)年4月13日のこと。ただちに開始された軍事調練に、桜馬場の公孫樹[いちょう]は繁葉を震わし戦戦[そそ]けさせた。それが5月2日のことで、柴田茂左衛門を隊長とする150名が三条方面へ向かって出陣したのが同8日、おっつけ17日には160名の増援隊が派兵された。
幕末 村上藩・国分一穂の洋式軍装姿
戊辰戦争で村上藩兵が使用した鉄砲
これらの部隊とは別に、弥彦浜に上陸する敵部隊を迎撃するべく30名の小隊が村上城下を出陣した。岩船港から出航して、赤塚・角田浜に着岸して揚兵、敵艦隊の兵を迎え撃つ作戦だ。
一歩早く上陸した村上兵と海上の官軍とで銃火を交えることになった。海上は黒白の煙雲と空を裂く弾雨が交差する。そのなか、村上藩士の小田辺重蔵が砲弾に斃[たお]れた。翌20日に弥彦へ到着、6月24日から寺泊から吉田、小島谷を転戦するが増援隊はなし。はなはだ景気は悪く、総勢引き揚げの命令が下ったのが7月28日。その日は長岡城が落城。
村上兵は、長岡兵の後を八十里越え(南会津と中越後間、現只見線)の道をひたすら逃走。柳津から塔寺、米沢、そして小国に到った8月12日、村上落城の報が入った。蹌踉[そうろう]*とした臑[すね]を引きずり、砂を噛みながら鶴岡城下に向かった。
「長谷川重助記録」
*足元が定まらず、ふらふらとよろけるさま
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2023年3月号掲載)村上市史異聞 より