いちない門か、しない門か、いずれが正しい呼称か判然としない。『村上御城郭(むらかみごじょうかく)』にも、ただ「市内門」と書くだけである。場所は、城山の裏の麓にあり、門の内側には数棟の侍屋敷がある。その侍屋敷の奥に、現大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)が立っている。
この門の役目は、城山の東麓、すなわち搦手(からめて)を守るためで、田口屋敷の田口は古くからの地名で、現在もその名は残る。田口屋敷の住人は、市内門の門番や警護の任にあった中小役人の住居である。門の規模は2間半に4間、窓3カ所とあるから、耕林寺門とさして変わらない。榊原15万石当時(元禄年間/1688~)の住居は、伊奈左太夫250石が組頭であろう。田口門のすぐ内側にいて、その他14人の名が見える。
外郭の堀は、国道7号の東崖下を現アテーナ付近からホームセンタームサシの駐車場を経て、シュープラザ付近まで達していた。城の建設当時(江戸時代初期)は、防備上重要視された地域であったゆえの防御施設であったが、平和な江戸時代後期になると必要性の薄い場所となり、また家臣の削減から田口屋敷の軒数はごく少なくなってしまう。
絵図に描かれる門の左には土塁が連なり、右側は城山麓の山塊(さんかい)を土塁に利用した造りになっている。そのすぐ下を流れる水路は現在も清冽(せいれつ)である。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2021年2月号掲載)村上市史異聞 より