北の新保村とは鳥越山(上記絵図の大岩山)を隔てる。山塊の岩脚を危なげな細い道が潮風にあおられてしとどに濡れている。馬下(まおろし)という地名は、牛馬の通行が不能な通路であったゆえに付けられたものと容易に推測されよう。伝説には、兄・源頼朝に追われた義経が奥州平泉に逃げる途次、きわめて厳しい難路のために騎乗の通行ができなくなって、馬を降りたゆえに馬下という地名になったというが、それは作り話にすぎない。義経一行の逃走路は、大須戸(おおすど)から蒲萄峠(ぶどうとうげ)と『義経記』はいう。
江戸時代の支配権は、村上藩から幕府領米沢藩預地(あずかりち)と変遷したことは早川村と同じである。村上藩が15万石当時は、馬下には番所が設置されて通行人改めをしていた。
蒼海(そうかい)にたゆとう白帆は漁(すなど)る船か、煙を吐いて南下する船は発動機による小型漁船であろう。発動機船が普及するのは明治10(1877)年頃からで、同13年には粟島丸が発動機の故障で6人の死亡した事件があった。脇川沖であったそうな。この絵は、発動機船が珍しい頃に描かれたと推測される。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2022年1月号掲載)村上市史異聞 より