江戸時代の初期に築かれた村上城は、堀丹後守直竒[なおより](10万石)が出羽山形城の最上氏を牽制する目的で築いた城であったから20万石程度の規模の備えであった。村上内藤藩5万石では家臣数が不足で防備はできるはずもない。
村上城跡
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藩主・内藤信民[のぶたみ]は養子で19歳。開城して官軍を迎え入れるか、はたまた鶴岡藩とともに抗戦するか、その二つの狭間で懊悩[おうのう]の果て、自殺してしまった。前藩主・内藤信親[のぶちか]は、江戸から戻る途中、長野・岩村田付近で立ち往生。高田藩が官軍を迎え入れたことにより北国道が塞がれたからである。
村上城は主のいない城となり、藩論は抗戦派と帰順派に分かれ、混迷を深めたまま官軍と戦うことになる。
銃座を設置したとされる山辺里村の北口
現在、湯殿山の碑は見当たらない
抗戦派の主将は家老・鳥居三十郎。鶴岡藩兵とともに中条まで出兵し、銃火を交えるが衆寡敵せず*撤退、岩船の石川岸や浦田山陣場も放棄、ときに村上城には百名足らずの藩兵である。山麓の居館に放火して退却。応援の鶴岡藩兵とともに羽越国境の山間地で官軍を迎撃しようとする。
*少数と多数とでは勝負にならないということ
村上城を占拠した官軍は、越前兵ほか8藩の730名で山辺里(さべり)村の北口、湯殿山碑付近に銃座を設置。山辺里川が赫々(かくかく)と篝(かがり)で燃え上がったという。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2022年11月号掲載)村上市史異聞 より