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昔のことせ! ~村上むかし語り~ 昔のことせ! ~村上むかし語り~

当コンテンツは村上商工会議所が毎月発行している
むらかみ商工会議所ニュースで連載していた
『村上市史異聞』を転載したものです。
※2024年5月号で連載は終了しました

 

 

著者である大場喜代司さん(故人)
村上の昔のことを、あれやこれやと語ります。

 

 

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2008~2015年に書かれたものはこちら

2018/12/01

119 豪勢な村上城下の武家屋敷

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村上城下の人口が最多になったのは宝永2(1705)年で、男4,503人・女4,493人・僧侶154人・行者12人・神主10人に達していた。

 

当時は、榊原15万石の統治下で侍は573人・足軽と中間合わせて1,117人もいた。最上級侍は千石から3千石級が16人もいる。それら人々の広大な屋敷が二之町から三之町まで黒い塀を連ねてずらりと立ち並び、中には金紋や豪奢(ごうしゃ)な飾り彫物を棟に付けた屋敷もあった。

 

飯野門奥の竹内太郎右衛家(千石)の棟には、金色に輝く鯱(しゃちほこ)と波、破風には剣菱紋が付いていたという。そのことを磯部順軒(安良町(あらまち)の寺子屋の師匠)は原田権左衛門(3千135石)屋敷の隅櫓であったと書いているが、『榊原分限帳』によれば原田家の紋は丸に二ツ引紋であって、剣菱紋はその東に隣接する竹内家の紋である。

 

その隅櫓が解体されたのは元文3(1738)年である。それを目にした順軒は、「六尺余の鯉や巴紋、剣菱紋、鯱にいたるまで金箔で、甚だ壮麗也、今度のこらず取り壊し」た、とさも惜しげに記している。

 

町人町の道路幅が決められたのは、堀直竒(ほりなおより)の城下町造りのときであろう。

 

大町(おおまち)四間・安良町三間六尺・寺町二間六尺五寸とある。『軒付帳』より。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2017年12月号掲載)村上市史異聞 より

 

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