野狐(のぎつね)の群れが鳴いていたというから、噴湯当時の瀬波温泉の様子たるや、原野と松林の広がる鬱然(うつぜん)とした草深い未墾地であった。
与謝野晶子が「いずくにも 女松の山の 裾ゆるく」と歌う景色だ。眺望限りなく女松の山が広まっている叙情の風情だった。それが噴湯によって様相が一変し、さらに鉄道の開通が温泉地の開発に拍車をかけた。
新発田(しばた) 中条間が開通したのは、大正3(1914)年6月1日、村上線 中条 村上間の開通は同年11月1日であった。引き続き、秋田へ向かっての工事が進められ、大正13(1924)年7月には羽越線の全線が開通した。客貨車とも、上り下り7本が運行。村上線開通6日目には東京から250人の観光団が訪れた。
同年11月には群馬県桐生や本県長岡から、また信越線経由では長野や関東方面からも煤煙(ばいえん)をなびかせた列車が新しい風致を描くようになった。駅と温泉を結ぶ道路にも着手し、松山線が開通し、瀬波自動車株式会社の設立となり、ハイヤーの営業が始まった。
大正15(1926)年の瀬波松山温泉は、旅館12軒、自炊客も受け入れていた。上の写真は、その頃の松山温泉を髣髴(ほうふつ)とさせるに充分であろう。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2019年1月号掲載)村上市史異聞 より