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昔のことせ! ~村上むかし語り~ 昔のことせ! ~村上むかし語り~

当コンテンツは村上商工会議所が毎月発行する
「むらかみ商工会議所ニュース」で連載中の
『村上市史異聞』を転載したものです。

 

 

著者である大場喜代司さんが
村上の昔のことを、あれやこれやと語ります。

 
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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2008~2015年に書かれたものはこちら。

2020/01/01

132 古写真に見る大正時代の瀬波温泉(2)

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野狐(のぎつね)の群れが鳴いていたというから、噴湯当時の瀬波温泉の様子たるや、原野と松林の広がる鬱然(うつぜん)とした草深い未墾地であった。

 

与謝野晶子が「いずくにも 女松の山の 裾ゆるく」と歌う景色だ。眺望限りなく女松の山が広まっている叙情の風情だった。それが噴湯によって様相が一変し、さらに鉄道の開通が温泉地の開発に拍車をかけた。

 

新発田(しばた)  中条間が開通したのは、大正3(1914)年6月1日、村上線 中条   村上間の開通は同年11月1日であった。引き続き、秋田へ向かっての工事が進められ、大正13(1924)年7月には羽越線の全線が開通した。客貨車とも、上り下り7本が運行。村上線開通6日目には東京から250人の観光団が訪れた。

 

同年11月には群馬県桐生や本県長岡から、また信越線経由では長野や関東方面からも煤煙(ばいえん)をなびかせた列車が新しい風致を描くようになった。駅と温泉を結ぶ道路にも着手し、松山線が開通し、瀬波自動車株式会社の設立となり、ハイヤーの営業が始まった。

 

大正15(1926)年の瀬波松山温泉は、旅館12軒、自炊客も受け入れていた。上の写真は、その頃の松山温泉を髣髴(ほうふつ)とさせるに充分であろう。

 

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2019年1月号掲載)村上市史異聞 より

 

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