天正七年の春を迎えたが、馥郁(ふくいく)たる梅の香はどこえやら、氷る風雨に肌は破れ、凛冽(りんれつ)の寒気に髭は針に変っていた。頼みにしていた北条は援軍の要請に応えない。栃尾本庄は自城に戻ったきりだし、残余の兵の脱走も相続ぎ、兵糧も欠乏し、烏がつつく残飯もない。焦燥と苦渋に満ちた城内で景虎は絞った血の墨を筆に含ませ、
「今日まで随分堅固にしてまいったが、あと十日も延びたならば滅亡であろう。去年以来頼み置くことでもあり、顕長も当城にいることでもある。貴殿自身か、千も二千も派兵か、千言万語頼み入る」
と書き顕長を使者に村上城の父繁長に届けさせた。まさに絶望的な窮状を訴えてはいるが、これでは逆効果で、負けると分かった将軍に味方する者はなかろう。景虎に残された方途は繁長と顕長間の父子の義理に訴えるのみである。
とはいえ繁長と景勝の間には主従の義理が生じていた。この義理には背けない。いずれにせよ景虎方の敗北は眼前であり、滅亡の渕から逃れる方法は降服和解しかほかない。そこで、道満丸を人質に、上杉憲政が全権使節として赴くことになった。
場所は四屋、会見は三月十七日、道満丸をば晴着で飾り、馬の背には謙信が贈った桧垣紋の陣幕をかけて旗指物を立てた。道満丸は九歳の童、死出の旅とも知らずに輿に乗った。一行は女房衆を含めて二十名、その無抵抗の哀れな行列の前途に待ち受けていたのは、峰の雪と散り敷く落花の香と、羅刹の残虐な凶刃であった。
やがて四屋、惨劇の絶叫が喉を裂いて虚空にあがり、乱れ狂った花びらが舞い散った。『越後古実聞書』は「天はにわかにかき曇り朧月夜のようになった」と伝えている。前後して御館にも景勝方が乱入、赤黒い煙が濛々(もうもう)と渦巻き、空に反りかえった大屋根を這いのぼり、天道を黄に滲ませた。混乱は名状しがたく、景虎の内室はじめ、女房衆のほとんどは死を求めたという。
景虎はその亡魂漂う御館を脱出し、堀江玄蕃(げんば)の鮫尾城に逃れた。主従は小田原からの付人や近習ら千二、三百余であったが、五百に減じ部将は六騎ばかりになっていたという。
藁わらをも掴む思いで頼った堀江であったが、とうに景虎をば見限っていた。顕長が離反したのもこの頃であろうか。義父越(こしの)十郎景信は戦没し、主君景虎は小田原への逃亡を企てている。顕長には小田原北条への義理は微塵もない。顕長が義理を尽す相手は皆無であった。かくて景虎はごく僅かの側近と鮫尾城で虚しくも露と消えた。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年11月号掲載)村上市史異聞 より