同じアングルから撮影した現在(2019年11月)の大町通り
大町通りを北から南に向かっての景観で、電柱が立っているということは、大正2(1913)年以降の撮影であることを示す。左手の道路は、直進すると現在の市役所に向かう。右手は、人力車の置かれた脇の通りが寺町通りとなる。村上町に電灯が点ったのは大正2年4月5日であった。
発電所は黒川村(現在の胎内市)坪穴で、村上水電株式会社の経営であった。街灯は電柱に取り付け、点灯は夕方に町内の係員がつけて回ると子どもらが付いて歩いたという。家庭の電灯は各戸に1灯であったが、それでもろうそくやランプなどよりはずっと明るく、針の穴もよく見えるようになったという。
(1枚目の写真右側)旅舘 鍋茶屋の屋根に上がる看板は、相撲興行の力士が宿泊していることを宣伝する。
江戸時代の街路は、微醺(びくん)*に染めた頬を夜風になぶらせながら袂(たもと)をひるがえす、などといった風流気(ふうりゅうぎ)*のある情景ではなかったろう。妄影(もうえい)か幻灯の世界であった。城下町に怪談がはびこるわけだ。道路の幅は、大町4間、寺町2間6尺で江戸時代から変わらない。安良町3間6尺ともある。
*微醺 …酒に少し酔うこと。ほろよい
*風流気 …詩歌・音楽・絵画などを好む風流な気質
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2019年12月号掲載)村上市史異聞 より