村上城山の麓に構える防御施設のほとんどは破壊され、柵戸は閉鎖され、残るは山城のみとなったが、その山城を攻めることが、困難であった。それはその山の地形にある。大手口の西斜面はむき出しの岩肌で、登る道は二筋あるが、大挙して登ることはできないし、斜面の直登は、槍や鉄砲を携えてはできない急傾斜だ。
それに比べ搦手の東面は、斜度は緩いが、空壕や郭が重なるように連なり、乱杭や隠し網が障害となり矢や鉄砲弾がどこからともなく襲いかかる。前述した『上杉年譜』の本庄城の地勢は、実見分して書いたものではない。単に比類なく堅固な城であることを強調して、そのような城でも輝虎は陥落させたということを言いたかったのだ。
この城の本当の堅固さは城をとり巻く環境もあろうが、なによりも城の立地条件にある。輝虎が焦慮して麾下の将兵を叱咤しても、将兵が躊躇するのは当然である。その攻め手に重大事が発生した。地形や地勢、本庄家の内情まで熟知している色部勝長が陣中で没したのである。正月九日の夜、本庄勢による夜襲で討死したか、本庄方も一人が戦没している。
また輝虎方は大川長秀の藤懸城の奪還の手筈が調った。藤懸城は城主で長兄の大川長秀が輝虎方になり、弟の孫太郎と藤七郎は本庄に味方して庄内の土佐林を味方につけていた。その長秀が、明け渡した城を奪還するべく大浦の武藤氏の被官竹井らの加勢を受けて藤懸城に進軍するというのである。
ここで和議の気運が急浮上した。葦名氏の使僧 遊足庵淳相(ゆうそくあんじゅんしょう)は、「本庄は日を追って手詰まり(動きがとれない)のよし、当方においても本望」と伝えている。
和議の後押しをしているのは三木良頼(よしより)<飛騨国益田郡の領主、従三位権中納言姉小路嗣頼(つぐより)>であった。良頼は輝虎に五十条からなる条書を示し、伊達・葦名の扱いは受けるべし「御思慮この節に候」と言っている。
和議が成立したのは、その年三月初旬、繁長の息男千代丸(顕長)が人質として出城したのは三月十八日、繁長が謝罪謹慎のため城を後にして猿沢城へ移ったのは同月二十六日であった。
その後の藤懸城は孫太郎が還住したが、藤七郎は説得を聞き入れず、兄長秀と袂を分かつべく奉公先を他に求めているという。輝虎が村上城を没収するなど戦後処理をして帰還したのが四月のことである。
しかし繁長への処分は甘く、城の没収も名目的なもので、間もなく繁長の許へ戻る。上杉麾下の諸将の席順も昇降格はなく、本庄の席次も従来のままで降格はない。色部のみが昇格となり本庄と同列になる。陣没した勝長の遺族への弔慰である。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年3月号掲載)村上市史異聞 より