鼠喰岩(ねずみかじりいわ)の戦闘
三条役所を脱出した村上侍と、第1次・2次に村上から三条方面へ出陣した兵を合わせると3、4百名程度になろう。その兵数が新たに加わって、鶴岡城下に進撃を企てる新政府軍を迎撃することになった。陣地を築いた場所は、羽越国境の鼠喰岩であった。
ネズミの喰い散らしに似た岩の表面ゆえに付いた地名であろう。その巨大な岩塊が海浜までせり出ている。その中腹に大砲を据え付け、寄せ手を撃退しようという作戦である。
村上・内藤家にも大砲はあるが、旧式の和砲で実践にはほとんど用をなさないが、庄内・酒井家のその大砲は実践向きで一段優れていた。この砲とこの戦力があれば、よもや新政府の雑兵どもは、この道は突破できまいと意気軒昂だった。確かに出羽街道は眼下である。登攀[とうはん]しようにも岩畳を立てたような地形である。
新政府軍は、軍艦・春日丸を勝木[がつぎ]に着け、揚陸した大砲を中村浜に据え、鼠喰岩の陣地に向けて発砲しはじめた。しかし、命中しない。砲術指令の涸[から]びた声だけが虚しく潮騒に消えてゆく。
嘲笑った村上兵は、好機到来とばかりに逆襲に出た。出羽道付近が惨劇の舞台と化した。算を乱し、瀕死兵を捨てて土佐兵が逃げ惑った。
天険を頼んで守備を堅持する庄内・村上兵に、新政府軍の兵士は攻めあぐんだ。戦没6名・負傷者23名にのぼった。庄内兵の戦死は2名、負傷者は12名であった。村上兵の負傷者はわずか3名であった。
9月27日、鶴岡城主・酒井忠篤[ただあつ]は、戦局の不利を悟って投降した。全面降伏であった。
【著者訂正】上記は誤記でした。深謝々々。実は、「このたび和談の願い差しあげられたよし」の情報が村上藩兵に伝えられたのは10月26日の夜のことで、今夜中に村上兵は鼠ヶ関[ねずがせき]から温海[あつみ]まで引き揚げよ、との命令である。
戦死した土佐兵の墓碑が、鼠喰岩の末端の海浜近くに侘しく残る。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2023年4月号掲載)村上市史異聞 より