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昔のことせ! ~村上むかし語り~ 昔のことせ! ~村上むかし語り~

当コンテンツは村上商工会議所が毎月発行する
「むらかみ商工会議所ニュース」で連載中の
『村上市史異聞』を転載したものです。

 

 

著者である大場喜代司さんが
村上の昔のことを、あれやこれやと語ります。

 
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著者の郷土史研究家・大場喜代司さんが
2024年3月27日にご逝去されました。
村上市の郷土史研究に多大な功績を残された
大場先生のご冥福をお祈り申し上げます。
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2008~2015年に書かれたものはこちら。

2024/02/01

181 山通りから海通りの道 戊辰戦争の道㋬

鼠喰岩(ねずみかじりいわ)の戦闘

 

三条役所を脱出した村上侍と、第1次・2次に村上から三条方面へ出陣した兵を合わせると3、4百名程度になろう。その兵数が新たに加わって、鶴岡城下に進撃を企てる新政府軍を迎撃することになった。陣地を築いた場所は、羽越国境の鼠喰岩であった。

 

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ネズミの喰い散らしに似た岩の表面ゆえに付いた地名であろう。その巨大な岩塊が海浜までせり出ている。その中腹に大砲を据え付け、寄せ手を撃退しようという作戦である。

 

村上・内藤家にも大砲はあるが、旧式の和砲で実践にはほとんど用をなさないが、庄内・酒井家のその大砲は実践向きで一段優れていた。この砲とこの戦力があれば、よもや新政府の雑兵どもは、この道は突破できまいと意気軒昂だった。確かに出羽街道は眼下である。登攀[とうはん]しようにも岩畳を立てたような地形である。

 

新政府軍は、軍艦・春日丸を勝木[がつぎ]に着け、揚陸した大砲を中村浜に据え、鼠喰岩の陣地に向けて発砲しはじめた。しかし、命中しない。砲術指令の涸[から]びた声だけが虚しく潮騒に消えてゆく。

 

嘲笑った村上兵は、好機到来とばかりに逆襲に出た。出羽道付近が惨劇の舞台と化した。算を乱し、瀕死兵を捨てて土佐兵が逃げ惑った。

 

天険を頼んで守備を堅持する庄内・村上兵に、新政府軍の兵士は攻めあぐんだ。戦没6名・負傷者23名にのぼった。庄内兵の戦死は2名、負傷者は12名であった。村上兵の負傷者はわずか3名であった。

 

9月27日、鶴岡城主・酒井忠篤[ただあつ]は、戦局の不利を悟って投降した。全面降伏であった。
【著者訂正】上記は誤記でした。深謝々々。実は、「このたび和談の願い差しあげられたよし」の情報が村上藩兵に伝えられたのは10月26日の夜のことで、今夜中に村上兵は鼠ヶ関[ねずがせき]から温海[あつみ]まで引き揚げよ、との命令である。

 

戦死した土佐兵の墓碑が、鼠喰岩の末端の海浜近くに侘しく残る。

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2023
年4月号掲載)村上市史異聞 より

 

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