両陣営共に一大関心事は織田信長の北上である。越後での内乱が長びけば、必ずや織田は北陸から北上し、上越を侵略しよう。それにまた伊達勢の南下も脅威である。
そこで戦局打開を期して、景虎方の栃尾・本庄秀綱は、六日町・坂戸城を攻めるも敗地にまみれる。また景勝方は再度御館を攻めるも小競り合い程度である。下郡でも消極的ながら黒川による騒動があり、本庄によって鎮静させられている。
両陣営にとって戦局は一進一退、どうにもぱっとしない。そこで浮上するのが武田勝頼による和議である。既述したがこのとき勝頼は本人が交渉に出向く前に本庄繁長を和議の先使にたてたか。
この勝頼による調停が効いたか、景虎は諾した。「やれ目出度し、これで勝頼の面目もたった」とよろこび、景勝も部将を労い褒賞を与えたりしていたが、それは一時のこと、糠よろこびであった。結果は景勝・景虎双方の主張するところが折合わず、破局を迎えることになる。面目を失った勝頼は、軍勢をまとめて甲斐に還ったのがその年の九月中旬であった。
景勝も景虎も、われこそが不識庵の後継者であることを主張し、譲り合うことはなかったゆえ、決裂したことは容易に想像がつく。これをもっていよいよ雌雄を決するときがきたと越後中が震撼し、下郡では黒川清実が鳥坂城の中条景泰を攻める。中郡では柏崎の北条(きたじょう)氏政が坂戸城を攻撃する。
急を聞いた小田原城では北条氏輝、輔広父子が一族の案内で三国峠を越えて上田庄へ乱入する。春日山城からは景虎に応じた逃亡者が現われる。その一方では会津の芦名の将小田切(新発田赤谷)が景虎方の旗を振り安田城や下条・水原をも蹂躙(じゅうりん)する。本庄秀綱は、御館に入城し、鮎川盛長はよりいっそう景虎の旗色を鮮明にした。色部の家中も分裂したが、本庄の説諭により鳴りを潜めたようである。
しかし一旦戦局は膠着し、越山した北条勢ではあったが武田が引き揚げるとともに一部の将兵を残留して関東へ帰陣する。景虎方不利と見たか上中郡の民衆までも、景勝陣営に誼を通じてくる。景虎が鮎川盛長に飛ばした檄には、「関東衆悉く参陣」といっているが景気づけの嘘の皮である。やがて越後は雪の中、野も山も白皚皚、鎧も凍り残刀焔(ざんとうほのほ)無くして影憧憧(かげしょうしょう)たり。
肉親あい撃ち憎悪むきだしにする決戦は、翌年にもつれこむ。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年10月号掲載)村上市史異聞 より