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村上の昔のことを、あれこれと語ります。

 

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2017/07/01

102 凄絶、謙信の後継争い(2) 武士の家意識

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景勝派の代表人物は、山浦国清(信濃国の村上義清の子)中条景泰・山吉豊守と景勝の出身地の上田(六日町)長尾一族、それと直江信綱(兼続の父)であり、さらに有力武将の上条政繁(じょうじょうまさしげ)がいた。この人物は能登国守護七尾城主畠山義隆(はたけやまよしたか)の叔父で、畠山家が没落すると越後へ亡命し、上杉謙信の庇護のもと、上条家(柏崎)を継いでいた。経歴からすれば景勝派では最高である。


一方の景虎派は、古志長尾(長岡)の上杉景信(かげのぶ)を筆頭に栃尾城主の本庄秀綱、信州衆の桃井義高、鮫尾城(新井)の堀江らで、領袖は、上杉憲政である。憲政はかつて関東管領職にあったが関東を追われて謙信を頼り、春日山城近くに城地を与えられ御館(おたて)と称して住んでいた。毛並みの良さからいえば、一等である。毛並みといえば上杉景信家も故謙信の母の生家であるから、羽振りでは人後に落ちない。


この古志十郎景信の許には、本庄繁長の長男顕長がいた。かねて村上城攻防戦の後始末に、繁長が和睦の条件に人質として謙信に差し出した千代丸である。やがて千代丸は顕長と名を改め、上杉景信の継嗣になり、景虎の小姓にあがっていた。


顕長の実父は本庄繁長であるが、継父は上杉景信で主君は上杉景虎である。義理が濃いのは実父より育ての父か、まして景虎は主君である。顕長は否応なく景虎の近習として参戦することになって、実父繁長とは敵対関係になる。


武士の家意識は、先祖以来の自分の家を守り継続させることと、主君の家を守るため身命をかけることの二重になっているが、両者を秤にかけると主君の家の方が重い。何を置いてもつくさねばならないのは、主君への義理であり、主家に一旦緩急あれば身命を賭して戦う覚悟がなければならない。


江戸時代になり幕府体制が強固になり将軍家への誠忠が顕在化してくると、主家の上に将軍家への義理が求められるから、三重の家意識となる。赤穂浪士は自分の家を滅しても主君への義理を貫いた。


とまれ本庄家は、二重の義理に挟まれた。下郡では鮎川が景虎に味方するし、色部は家中が動揺し収拾のつかない。


南北に長い越後国の上中下郡とも、まったく混沌としていたが、勢力的にやや優勢であったのは景虎方であった。

 

 

大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年6月号掲載)村上市史異聞 より

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