※場所はおおよその位置で正確なものではありません
東西に走る堀片通りの中ほどに十字路があり、その交叉(差)点から南は新町の侍屋敷が東西に2列に並ぶ。久保多町から堀片の通りに達する道は、細々とした畑の中の徑(こみち)でしかなく、したがって、現在信号機のあるところは丁字路であって、その道を南に向かってすぐ東へ曲がると新町の通りが東に向かうし、直進すると下渡門下の新町通りとなる。
門の規模は2間に5間、冠木作(造)りとある。絵図では堂々たる姿の門構えであるが、実測の様式書では冠木門である。その様式は、数間離れた2本の柱の上に横木を渡しただけの簡素な造りの門である。
すると、この絵図は立派に見せるため誇張して描いたものか。門の名称は、この門の内側に秋葉神社が鎮座していたゆえで、その神社は「享保六年(一七二一)六月久保多町出火、一二〇軒焼失、これにて三度焼失」。この後、秋葉神社は火伏のために久保多町へ遷宮(せんぐう)、現在に至る。それまで同所に鎮座していた馬頭観音は塩町の西端へ遷(うつ)ったが今はない。信仰も時代とともに変遷する。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2021年7月号掲載)村上市史異聞 より