米沢藩は上海府(かみかいふ)の一部の村村を幕府から預かっていたが、年貢収納や治安を維持するために塩野町(しおのまち)に代官所を置いていた。代官の出張時は、主に秋の年貢収納に一度。そのほか、殺人犯などの手配書が幕府から回ってきたときなどである。
そのような代官所役人の出張のときは、蒲萄(ぶどう)山塊を越えて往復しなければならない。現在も使用されているが、蒲萄から越沢に至る道である。現在、馬下(まおろし)には多くの古文書が保存されている。
鎮守・八幡社に合祀の天神像は疫病退散の神で、慶安4(1651)年の疫病流行のとき、満願日に筵(むしろ)に包まれて流れ着いたものという伝承がある。今も昔も疫病退治は神頼みか。
馬下から北へ向かう道は、断崖絶壁の下の危険極まりない岩上の小径で、その上を蟻(あり)のような人間がもそもそと蠢(うごめ)き、波の花に逆らった鷗(かもめ)が鳴き声もあげずに舞い狂っていた。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2022年2月号掲載)村上市史異聞 より