慶応4年改元して明治元(1868)年、その7月15日夜に藩主・内藤信民[のぶたみ]は城中で自殺を遂げる。歳わずか19。城中は混迷の渦巻く黒い渕に突き落とされた。
中条に進出した官軍は、帰順した新発田[しばた]藩兵を先導にして村上城下へ迫る様子である。まさに焦眉の急、廊が揺れ垣が櫓がきしみ、堀の水が沸きたった。8月6日、重役は崩落寸前の城を背に城下の町々に、たくあん漬や梅干し、鍋などの供出を命じたことを『加賀町年寄佐藤伝四郎日記』は書き記している。
藩主不在・藩論不統一のまま、敵を迎撃するというものだから無謀この上もない。応援の庄内藩兵は、防戦の不利を知ると猿沢まで退いた。赫々[かっかく]たる西陽は煙雲に閉ざされ、重苦しい大気のもと、遅まきながら城の重役から町人に避難命令が発令されたのは8月10日の午後4時頃であった。
その頃、城下の各城門には藩兵は一人もいなく、町人からの徴募兵がいたに過ぎなく、それも逃げ去り、城にも鳥居三十郎ほか数名がいただけで防禦[ぼうぎょ]どころではなかった。明けて11日、城下は狂乱の朝を迎えると、町人どころが侍までもの避難の荷車が砂塵の渦をつくり、城外へ逃れようとする。するうち早鐘が気違いじみた音をたて鳴りわたり、「敵兵、七湊[ななみなと]に出没」の報を告げると、鳥居以下残存の藩兵らは出羽道を逃避路にして羽越国境の山間に向けて直走[ひたはし]りになる。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2022年12月号掲載)村上市史異聞 より