大正時代の姿から一転、明治時代にさかのぼると工業力新設の情景が眼前に現れる。明治41(1908)年に操業した「越陽館(えつようかん)製糸工場」である。館主代表は黒田村の小池与惣太と関口村の海沼市蔵であった。
工場の設置場所は、鍛冶町の北裏である。かなたには三面川の堤防が連なり、山容巍峨(ぎが)といえばいささか大仰(おおぎょう)な言いまわしであるが、下渡(げど)山塊が望まれる。
工場の表面玄関には、紅白の幕がひき回され、国旗が立つ。その手前には杉のアーチであろう、そこにも国旗が拱手(きょうしゅ)され、多数の参観者の姿が見える。工場内には隙間なく並んだ女工の息遣いと鬢髪(びんはつ)の匂いが蒸れて、機械油と繭の匂いが重層をなしている。
窓は瑠璃玻璃(るりはり)に紛(まご)うガラスに輝き、近代化を誇る煙突が白い裳(も)をひいていた。大日本蚕系会新潟支会第2回品評会が村上町で開かれたのは、明治43(1910)年のことであった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2019年11月号掲載)村上市史異聞 より