大浦城が武藤氏の旧臣らに陥されたことは、城内に旧交者が多くいたためであろう。また東禅寺城にも川北衆の来次氏の縁者や反東禅寺勢力などが少なくなかった。しかも、その後方には秋田愛季(ちかすえ)が大きな影響を与えていたこともある。
そも秋田氏は、安藤秋田と湊秋田の同族が争い優位に立つには、他からの軍事力を導入する必要があった。そこで本庄と同盟関係を結んだのが湊秋田愛季である。本庄の完全勝利の陰には伊達氏の策動があり、秋田愛季の伏勢があった。
本庄は圧倒的な勝利を挙げると、さっそく伊達政宗に戦勝結果を報せた。「本庄より飛脚まいり、庄内ことごとくて(手)に入申候、もかミ(最上)衆二千五百人あまりうつとり(討取)申候よし」
その祝儀の言上に重臣田村月斎など一類、あるいは相馬三春の侍が参上した。
11月27日には、本庄から戦勝記念として刀を贈られたことを「ほんちやう(本庄)いんきよ(隠居)よりかたな(刀)上御申候」『伊達天正日記』
誰より何より喜んだのは、ほかならぬ上杉景勝である。なにしろ庄内三郡10万石(江戸時代初期では酒井家14万石)がそっくり手に入ったのだ。丸田掃部助を使者にして、虎の毛皮と太刀一腰、脇差一腰を贈ってきた。
しかし、戦勝にうつつを抜かしてはいられない。すでに天下は豊臣のものとなり、惣無事令(私戦禁止令)が発せられているのだ。それをかわすための名目が武藤家の再興である。ところが、それが元で武藤家に内紛が起きた。このことをまず豊臣政権の中枢に認識させる。その外交役を担ったのが直江兼続であり、交渉相手は増田(ました)長盛であり石田三成であった。両者は秀吉の奉行であり奏者(直接取次)でもある。これに至るまでの経緯は、先の人物らで了承済みであったと思われる。けれど、この中には徳川家康の名はない。
が、すでに庄内動乱は京洛にも喧伝されている。秀吉は理非はいずれにあるや、当事者・本庄繁長を糺明するから上洛させよと厳命を下した。
「最上の領分の庄内領を本庄が乗っとったというが事実か、最上と本庄を召喚して理非を糺す、最上にはその旨を通達したので、本庄も上洛させよ、両者間決して手出し無用」
これを受けた上杉景勝は、本庄に「片時も急ぎ上洛すべきであるが、繁長は領内鎮定のために残り、千勝丸を上洛させよ」と伝えてきた。天正16年12月9日のことである。ところ年内に余日がない。上洛は翌年5月2日に持ち越された。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2017年7月号掲載)村上市史異聞 より