村上城を占拠した新政府軍は、村上城下を補給基地にして、鶴岡城攻略の態勢に入る。
まず、本隊を村上城下に残し、主力勢を越前藩(福井)ほか8藩730名とし、山通りの出羽道を進撃させる。別動隊は備中足守藩(岡山)ほか4藩200名を海浜の出羽道を北上させる。
主力隊の出羽道の先導には、新政府軍に帰順した村上藩の牧大助らがあてられた。道案内とともに忠誠心を試す目的である。羽越国境の山間地に庄内と村上兵の迎撃陣地があると斥候の報告である。低山の連なりゆえに小沢や小峰が連なる複雑な地形である。その無数な小突起の斜面には、幾カ所もの胸壁を設けて銃座にして、官軍を狙撃するべく構えているのだという。
その胸壁は現在でも残るが、ひと口に言えば土の蛸壺[たこつぼ]である。それを山の斜面に設け、2・3人が入って身を隠し、敵を狙撃する簡易な陣地である。それを堀切峠と「村上山」と俗称する中の峰に設けて、堀切峠の守備を庄内兵に委ね、村上山には村上兵を配置した。
8月26日、新政府軍は日本国山の中腹に蛸壺の陣地を設け、村上・庄内兵の攻撃拠点にした。新政府軍の最初の目標は村上山の村上兵であったから、攻撃と反撃は村上兵同士の争いとなって、はしなくも(はからずも)牧大助と関菊太郎の両名が銃弾を浴びて朱の池に斃[たお]れた。
徴募による農兵も加わった同盟軍は、優位に戦局を展開させ、28日には温海[あつみ]の岩石村の付近で小松(四国伊予)・三ヶ月(三日月:播磨佐用郡)・三根山(越後巻町)・与板の各藩兵と戦う。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2023年1月号掲載)村上市史異聞 より