鶴岡城主・酒井忠篤(ただあつ)降服・終戦
前月、『9月27日、鶴岡城主・酒井忠篤(ただあつ)は、戦局の不利を悟って投降した。全面降伏であった。』と書いたが、それは誤記でした。深謝々々。実は、「このたび和談の願い差しあげられたよし」の情報が村上藩兵に伝えられたのは10月26日の夜のことで、今夜中に村上兵は鼠ヶ関[ねずがせき]から温海[あつみ]まで引き揚げよ、との命令である。
「終戦だとよー。庄内の殿様、降服謝罪の嘆願書を出したそうな」電光のように情報が伝わる。
紺の夜闇に虹を解かした海面がどよめき、兵の顔を明るくした。早くもどこかの神棚を運び込み、御酒を捧げ、慶びの柏手を打つ者があり、一統大歓[おおよろこび]によろこんだ。
神酒の鏡がぬかれ満座は朱となった。殺伐の色が消え、安堵[あんど]の一色となった。総員引き上げの提灯と松明[たいまつ]で海浜は輝り映え、真昼のようであったと長谷川重助は記す。
ほとんどの藩士は、訳が分からないまま戦にかりだされ、滅多矢鱈[めったやたら]に刀鎗を振りまわし、鉄砲を撃ち、恐怖に顔面を引きつらせていた。それから一転、狂暴の劇が幕切れとなった。暗雲が破れ飛び、青い薄雲にかわった。
戊辰戦争に対する感想を、塚原渋柿園は
ただ「口惜しい」で前後無茶苦茶に飛び出した。…朝廷からはもとより賊、主家からは不忠の臣、…何の趣意で、誰のために、この命がけの難渋な戦争をするのか、わからぬといえば実にこれほどわからぬことはない。蓋[けだ]し古今東西の歴史中に、こんな馬鹿げた戦争をした者があったかないか私はしらない…実にもって至愚[しぐ]の骨頂
『塚原渋柿園 回想』
氷雨に叩かれ、腐れ草鞋も重く村上城下に帰った彼らの家は、ことごとく政府軍に接収されている。割り当てられた宿泊所は、城下の寺であった。わが物顔にのさばって、村上町民から鼻つまみにされたのは政府軍の兵士であった。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2023年5月号掲載)村上市史異聞 より