色部顕長(勝長の跡継)宛、謙信書状は、
……向後者、本庄弥次郎座敷以下迄(まで)下ニ(したに)有之(これある)間敷(まじき)者(ものなり)也……
この文言を読み違えて本庄の降格とした史家もいる。打ち消しの「まじき」の意を解し得なかったものかもしれない。いずれにせよ、丁寧にこの文言を読めば、本庄の降格とは読めないはずだ。
本庄の籠城は国主という権力に楯ついたものだから反逆罪として処断されるべきところであるが、一向にそれらしい様子はない。原因糾明が不可能であったのか、否、原因は長尾藤景と本庄繁長との、具体性は欠くが、「私怨」で、それが殺傷沙汰となり、本庄の反逆という誤解を生んだ、ということであろうが事件の鍵をにぎる繁長は語り残していないし、長尾兄弟は斬殺されているから真相は闇の中である。ただ一国人が単独で、国主勢を向こうに回して、一年間も戦い抜いたことに天下の耳目を集めて賞賛されたことは確かなことである。
騒乱の張本人として繁長は恭順の意を表すため、名乗りを雲林斎全長と称したところ、これが謙信の思し召しに違ったというとは『本庄氏系図』の言うところであるが、雨順斎全長という僧名を使っているのは、和議が成立する前、永禄十一年十二月二十八日の書状にある。
僧名を名乗ることは、当時の武将間での流行のようなものであった。繁長の僧名も流行に乗ったものであろう。
謙信の人質となって春日山へのぼった千代丸は、新六郎顕長(あきなが)と改め、母親の実家 古志上杉十郎景信の養子となる。この人がまた父繁長以上に数奇な運命をたどるのだが、それはのちのはなしである。
村上城籠城の発端になったのは、どこをどう推しても理屈がなり立たない。これまでの一般論は、本庄繁長が武田信玄に唆され、それが長尾藤景に露顕したことにより、藤景兄弟を討って、村上城に籠もって上杉軍と対戦した。
繁長が川中嶋合戦の戦術批判をしたことが、謙信に聞こえることとなり、それゆえに繁長への恩賞がなく、そのことが不満となり挙兵となったが、その裏には武田信玄の策謀があった。
これらの話も無理がある。戦術批判と武田の策謀と藤景兄弟の関係が唐突として登場するからだ。恩賞も他将に与えられていればこそのはなしだが、一片の領地も得ていない謙信が、武将に与える領地なぞあるわけがない。
感状なぞ後世の人間がよろこび後生大事に持ち伝えたもので、賞として呉れるものがないから書いたものである。
大体が公権力に楯突いた国人の城地を没収せず、家格も下げず人質を出させたのみで事を治めているのだ。おかしいといえばおかしい。唯、推量を許してもらへば、この戦乱によって、武将としての本庄繁長への評価は全国的に鳴り響いたことである。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年4月号掲載)村上市史異聞 より