御館の乱で上杉景虎が敗死して、古管領憲政、幼童・道満丸とその母(景勝の妹)が無残な最後を遂げた。上杉景勝は越後国を統一して国主になったが、決して安定した政権ではなかった。まず、屋台骨を揺ったのは上条政繁であった。元越中国主の経歴から、われこそが上杉政権の総帥であるのに、たかが方面軍の指揮官とは、誰が直江兼続なぞの命令を聞くものか、と怒って上方へ走った。
時に織田信長の軍勢が武田勝頼を攻め滅し、その余勢を駆って信州路を席巻して越後を目指して進軍中で、北陸道では魚津城が織田勢の前田や柴田などの大攻勢を受けつつあったときである。上条政繁が抜けると、その穴埋めは容易なものでなく、上杉政権にとっては大きな衝撃となった。
大軍に包囲された魚津城は、多くの犠牲者を出して陥落。天正10年6月3日午の刻であった。
越後国は危急存亡の秋(とき)で、春日山城の参謀は怖気だった。ところ運命の歯車はどう狂ったか、信長は京の本能寺で明智光秀の夜襲を受け、大火炎の中で骨一本も余さず焼け死んだという情報が飛びこんだのである。
景勝以下、愁眉を開いたなんてものではない。だが、北越には別な火種が燠のように燃えさかろうとしていた。新発田重家が籠城し、さかんに信濃川河口に兵火を掲げたりしていた。重家の反逆は何が原因か。その一つは御館の乱の戦功行賞に不満があったか、一つは織田信長のそそのかしに乗ったか、さらにもう一つは景勝と直江の政権に強烈に反発したか。いずれにしても尋常な状態ではない。
当初は、羽柴秀吉も重家を説得して、こと無きに治めようとして、青蓮院の尊朝親王の名をもって、和議を成立させようとしたが、何としても首を横にふる。土台、重家は一度心に刻んだことは、馬に踏まれても曲げないというほど情が強い。秀吉の仲介であろうが、尊朝親王の親書だろうが、眼中にない。ついに折れたのは秀吉であった。景勝に「ほとほと呆れかえった男だ、断固討つべし」と命じてきた。そこで新発田城攻めの総指揮を執ることになったのが本庄繁長であった。これまた難儀な役回りである。一つには重家の父親からの好誼が重い。けれど繁長は上杉家随一の立場である。一切の私情をさし挟むことはできない。
かくて新発田城は上杉軍の猛攻にさらされ、重家一族は紫雲に消えた。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2017年1月号掲載)村上市史異聞 より