越えて五月五日になると上杉勢が岩船に到着する。(張陣したところは浜手の善行寺周辺と伝える)九日には村上城攻めを敢行するが、戦果はない。この日は鮎川口(大葉沢の村端れ)で小競りあいがあった。大葉沢城を奪い返しにきた上杉勢の殿(しんがり=後陣)上条景義(じょうじょうかげよし)と枇杷嶋広負(びわじまひろかず)の兵に、本庄方の足軽五十人が襲いかかったものだ。
いわゆる足軽戦であるが、緒戦は三度とも上杉方の敗軍、四回戦は本庄方が敗走する。戦死者は本庄が十一人、上杉勢も十余人を出し兵を引く。勝敗からすると双方引き分けであった。
十四日には村上城の東麓にある根小屋(兵営・陣所)を上杉勢が攻めるも守備が堅く、十五もの首級を取られ、負傷者も多く撤退を余議なくされる。(東麓一帯は湿地や深田続きで、多くの兵を投入できない場所である)
上杉勢は二十二日になると東面の城攻めを困難と判断したか、西面の町端を閉ざして城兵を押し込めてから大葉沢城の奪還と将軍峯(笹平地内)の奪取を行う、とした作戦をたてた。しかしこの作戦は将軍峯に本庄勢が多くの兵力を増強していたので失敗して敗退する。
七月八日にはその山麓の村で足軽同士の小競り合いがあるも両軍とも戦果はない。
戦局の進展のため本庄方は稲村・菅谷(地名不明)に伏兵を配置して待ち構えていると果たして同日、上杉勢が進撃を開始してきた。最大の攻撃目標は大葉沢城の奪取であるが、その前方に散在する本庄勢を潰して置くことである。上杉方の部将は杉原・安田長秀、下条実頼であったが、地の利を得た本庄方が十一人もの敵兵を討ちとり勝利した。
二十日になると、上杉方は猿沢城を攻撃目標にしたか、兵糧攻めのため周辺の稲の焼亡作戦に出た。同時に石住に兵を進め、翌日には中原にも布陣する。
二十二日には本庄方が岩船の上杉勢の本陣を攻めるため進軍すると、浦田山に待ち構えていた上杉勢と戦闘状態になる。本庄方は籠城戦とはいえ野戦も敢行、かたや上杉勢も浦田山の陣が破られることは、前衛を失うことだから戦闘も真剣となる。この戦での戦死者は本庄方で一人、上杉方で五人を出した。
二十三日になると、中原に布陣していた上杉方であろうか、猿沢城に押し寄せてきた。戦闘は猿沢の城下入口で始まった。現在城跡は猿沢村の西裏から山麓にかけて、実城は標高四百余メートルの尾根上に残り、規模の大きさや、険阻な地形からしても、きわめて堅固な城で、いかにも本庄累代の城であったことが窺える。
この日の戦闘はこれまでとは違い、攻守ともかなりの兵力を投入したようで、守備方本庄に一人の打死、三~五人の手負。一方攻め手上杉は十余人もの戦死者があった。
これまでが前哨戦のようで、翌二十四日になると攻守が入れ替わって、本庄勢が上杉勢の本陣岩船を攻める。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2015年11月号掲載)村上市史異聞 より