藩が解体され、城が次々と破却されていったのは明治時代の初期である。価値観が根底から覆ったのである。されど、いまだ旧藩の威風を吹かせて通行人を睥睨(へいげい)していた村上城の城門は健全な雄姿を誇っていた。
その威厳のある姿態は絵筆に残されていた。明治元(1868)年の村上城の城門の絵図である。筆者自身の実見によるものであるから、その正確性はかなり高い。ただ、石垣の描写はすべてが亀甲積になっていることが難である。実際は布積(ぬのづみ)という積み方である。その例は城山の石垣の積み方である。
※亀甲積は石の加工に手間がかかる。布積とは布を張りつけたように見えるゆえの名称である
追手門は「大手門」とも書き、城の正面で最上の規模である。門の上部構造物を多門櫓と称するが、3間半に12間半で窓が12カ所との記録がある。
その後方の見張所は正しくは「御番所」と書き、2間半に6間、窓1カ所と記される。正徳元(1711)年『御城廊』見張所の背後から連なる塀の内側は内藤家々老 嶋田直枝の広大な屋敷であった。その道路を挟んだ北には、金役所(正式には「元方役所」)が描かれる。財政管理庁舎である。(原図所有:羽黒町 平野表具店)
総じて屋根は板屋根に見える。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2020年7月号掲載)村上市史異聞 より