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昔のことせ! ~村上むかし語り~ 昔のことせ! ~村上むかし語り~

村上の昔のことを、あれこれと語ります。

 

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2018/09/01

116 本庄繁長の敗訴、所領没収

最上義光は徳川家康に、本庄の戦争行為は惣無事令違反で理不尽であると訴えた。しかも、数度にわたり執拗(しつよう)にである。秀吉の裁断は、むろん本庄側に非ありで、本庄の本貫地(本籍 村上)を没収し、武藤義勝の所有となった大浦城と東禅寺城も没収した。

 

そして、村上領は上杉の重臣・大国実頼の所領となり、庄内領は上杉の直轄地となり、大浦城は下治右衛門(しもじえもん)が預かり、東禅寺城は甘粕備後(あまかすびんご)の預かるところとなった。そこで、本庄繁長はあくまで隠居のまま京都の上杉屋敷に移され、武藤義勝は旧姓 本庄に復し、これまた京都に移った。

 

繁長が本貫地・村上を離れて上洛したのは、庄内戦争の2年後、天正18(1590)年夏と推定される。従った家来は、安武主殿助(やすたけとのものすけ)ら45名であった。戦争敗者の最上は庄内領を放棄し、勝者の本庄は本貫地までも没収の憂き目に遭い、浪人となった。得をしたのは上杉景勝のみ、いや直江兼続もその一人であろう。庄内の支配権を任せられ、弟の大国実頼には村上領が与えられたからだ。

 

庄内戦争を本庄の上杉代理戦争であるというむきもあるが、上杉景勝が援助したのは無に等しい。しかし、繁長は武名と知謀を鳴り響かせた。それゆえ、京都で蟄居(ちっきょ)中に徳川家や加賀の前田家、豊臣秀次から仕官の要請があったが、それには肯じない。実を取るしか名誉を取ることを一義とした人物であったか。その武略を利用し、己の実利と地位の向上を図ったのが、政治家・直江であったか。

 

戦国大名の政権は、武略と政治力に長けた家臣のどちらか一方が欠けても成り立たなかった。かたや伊達政宗は、最上が手痛い打撃を庄内でこうむると、その間隙に会津の芦名義広(あしなよしひろ)を討つ。また、秋田実季(あきたさねすえ)は同族の通季(みちすえ)を攻略して降ろすが、これもまた処罰される。すなわち、会津領も秋田領も没収されたのである。

 

かれこれの処罰がなされたのは、天正18年と同19年であった。本庄の謹慎はおよそ一年間であるが、再び村上の地には戻らない。

 

本庄の本貫地であった村上領の支配は、大国の代官・春日元忠が行うようになる。

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村上城下へ入った春日の手勢は侍20名、足軽約220名、それにその家族と町人である。村上はこのとき、ようやく城下町らしくなった。街地が形成されたのは、現在の二之町から三之町にかけてである。その以西は、瀬波の村落まで狐狸(こり)が走り、怪鳥が羽ばたく茫々(ぼうぼう)たるヤエムグラの原野であった。

 

戦国期の武士は「在地領主制」といって、城下に集住することなく、自分の知行地に住んでいたのである。変貌する城下町は次回(2018年10月1日更新予定)。

 

 

 

大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2017年9月号掲載)村上市史異聞 より

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