村上町が城下町として形成された寛永12(1635)年での侍と足軽は約1,000人、町家は652軒という数字が残っている。それが榊原時代になると侍573人、足軽以下1,117人と膨れあがる。
ところが、宝永6(1709)年9月13日、城主・本多忠孝が病没して同家が15万石から5万石に減知されると大量の解雇者が出る。それも、軽輩の足軽や徒士(かち)で総勢430人であった。その徒士が住んでいたところが一番町から四番町まであった駒込町である。
上図が示すように広大な敷地である。びっしりと軒を並べ、組頭級であろうか、氏名の記入がされている屋敷もある。この住宅地が町家や農家に下げ渡しとなり、売却金は他の家臣の家の修繕費に充てられたが、すぐには売れず、若狭屋久兵衛と松屋久次郎を通して売ったと『村上城主歴代譜』という本に記してある。両者は村上城下の有力者であったか。
解雇された侍は城下にいることができない。しかし、雪の季節だから翌年の3・4月まで滞留することが許された。それにしても、広大な土地が空き地になり、次第に茶畑などに変貌して、番町という地名だけに名残りをとどめたのである。「荒れにけり あはれ幾世のやどなれや すみけん人の訪れもせぬ」(古今和歌集 よみ人しらず)
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』(2018年1月号掲載)村上市史異聞 より