上杉謙信が急病を得て倒れ、幾ばくも無くして没した。「上杉家譜」には「俄に中風の御症を受けたまい卒倒し」とあって、跡目相続の件については、直江景継(兼続の義父)の後室が病床で、高声をもって跡目相続は「景勝公ですか」と尋ねたところ肯いたという。そこに並居る諸臣は「皆喜悦の眉」を開いた。間もなく謙信は没した。齢四十九であった。
「謙信一代記」には「三月九日厠(かわや)ニ行キテ初メテ痛(やまい)ヲ患(られ)フ」便所で倒れた、という。跡目相続については、「上杉家譜」と「上杉年譜」はまったく同じである。
ところで養子の一人景虎は、小田原北条から人質として上杉家に入り、氏秀の名を景虎と改めた。実父は北条氏康で氏秀はその七男、妻は景勝の妹であるから謙信の姪である。居館は春日山城二の丸が与えられていた。
一方の景勝は上田(六日町)城主長尾政景の二男で、母は長尾(上杉)為景の娘で謙信の姉であった。上田で生まれ謙信の養子となり、弾正少弼の官途を授けられ景勝と改名したのは二十二歳のときであった。
武将としての資質は両者と比較する資史料はないが、景虎の場合は幼少から歌舞音曲や詩歌を仕込まれ、大名・公家などとの交際も、こと欠くことがなかったという。居館は景虎が二の丸、景勝は春日山城本丸であるから、同一の城郭を二者で分けて住んでいた。謙信の没後、景勝が早速、本丸を占拠したものであろう。けれど景勝が継嗣であれば、至極もっとものことである。
とまれ謙信が死没すると景勝は近隣の大名国人領主に、継嗣は景勝であるむねの状を発した。会津の大守芦名盛氏には、(謙信の)「遺言に任せ、景勝実城に移る。万方仕置など謙信存世に相替(変)らず申し付け候、御心安くべく候」と書き送ったのが四月三日である。
景勝が謙信の遺言により春日山の本丸に移り、おのれこそが後嗣であると宣言すると、本荘繁長(入道して全長と改名)は景勝宛てに「実城へ御移り各々馳走、千秋万歳、御目出に存じ奉り候」と書状を発した。実城=本城、馳走=味方となって馳せ回る意。「自今以後無二の忠信抽(ぬきん)ずべく」とも誓った。ところが他の国衆は動揺、越後国は景勝派と景虎派に真二つに割れてしまった。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2016年5月号掲載)村上市史異聞 より