豊臣秀吉が命じた惣無事(私戦禁止)は、これまで諸大名が勝手に行使していた交戦を絶対禁止したもので、その下達は徳川家康によってなされた。「関東惣無事の儀、今度家康に仰せ付けらるの条……若し相背く族やからこれ有るにおいては、成敗を加う」
強大な権力を背にした豊臣秀吉は、大名の領土の与奪権を握ったわけであるから、大名間の自力解決権は一切否定されることになる。また、徳川家康がその下達執行者であることは、家康が政権の最高権力者をも意味する。この命令書が伊達政宗の重臣・片倉景綱に宛てられたのは天正15年12月3日であった。本庄繁長には同月20日の書状で伝えられ、山形の最上義光へは翌16年5月上旬に下達された。
繁長がこの下達令をかわすには、庄内戦争はあくまでも武藤家の内紛として押し通さねばならない。そこで繁長は本庄の当主を退き、隠居となった。その年月は明らかにし得ないが、伊達政宗の『天正日記』には「ほんちやう(本庄) いんきよ(隠居)」とある。
また、表面きって上杉の征旅ということも避けねばならないし、大部隊の編成もできない。主力隊は本庄軍で、支援は阿賀北衆のみの編成である。しかし、なにゆえ繁長はかくまでしても争乱のたねを拾わねばならなかったのか、繁長一個の功名ゆえか、あくまでも主家に対する誠忠のみか、いやいや闘争の鬼畜霊が乱舞するところであったか。
とあれ本庄勢の主戦力は騎馬武者390、徒士952人でしかない。加えて色部・中条・黒川・鮎川・大川と武藤ら庄内衆である。直属の鉄砲隊は百挺、槍7百筋、浪人の臨時雇用70人、手明(臨時徴募の百姓兵)50人と輜重輸卒である。
ついでに主将名と配下数を挙げると、板屋古瀬駿河守、山辺里筑後守、石栗将監らを主にした34騎。岩沢織部・小串権助・江見右馬丞らを主にした26騎。また有明、鵜渡路、中嶋、中津川、南、小嶋、鷲尾、小川らと、大川・立嶋・小池ら近隣の浪人であった。地名を名字にしているのは、その地がその武士の知行地であり、居住地であったからだ。それを在地領主制といい、戦国武士社会の一特色である。
とあれ最上は50万石を優に超える羽州きっての豪家、本庄は1万石余で上杉の被官でしかない。彼我の兵力を明らかにする資料はないが、その差は歴然だろう。
大敵と対戦するには、敵兵力を分散する戦略を採る。本庄の作戦はまさにその戦法であった。最上義光(よしあき)の勢力拡大を嫌っていた伊達政宗や、秋田愛季(ちかすえ)と軍事同盟を結び、領境を紛擾に陥す。さすれば最上はどうでも兵力を差し向けよう。また由利郡の諸族を味方につけることにより、東禅寺勢を牽制する。
ここまでは繁長の計算内であったろうが、絶対的な勝利を得た要因は、数を頼んだ義光の奢りにあったのかもしれない。
大場喜代司
『村上商工会議所ニュース』(2017年3月号掲載)村上市史異聞 より