集落の南を流れる川を「早川」と名付ける。源流は東の虚空蔵山で、その山を越えれば早稲田・板屋越になる。
江戸時代の初めは村上藩領であったが、宝永6(1709)年には幕府領となり、幕末には会津藩預地(あずかりち)になった。預地とは、幕府領の地所の管理を任されていることで、管理に要する経費の一切を負担しなければならなかった。
年貢米などは幕府の許(もと)に入り、預かっている藩には入らない。その村を預けられた藩にとっては、はなはだ迷惑なことであったが、幕府にとっては年貢収納にかかる経費は皆無であるから巧妙な財政政策であった。
その幕府の出先機関は、水原(すいばら)の幕府代官所である。その総取締役は代官で、その他十数名の下役が税務や治安に当たっていた。越後の代官所は水原と出雲崎(いずもざき)で、その支配地域を天領(てんりょう)と呼んでいた。
早川村は廻船業者の村でもあった。そのため、村寺の早川寺(絵図の左上部)の観音堂と石動神社には、十枚ずつの船絵馬が掲げられている。
材木の搬出も盛んで、図下にはその材木であろう、数多く堆積されている。
大場喜代司
『むらかみ商工会議所ニュース』
(2021年12月号掲載)村上市史異聞 より